2006年12月15日

第30回響の会研究公演「井筒」

見所はほぼ満席。大したものだ。動員をかけたのだろうけど、それにしても見所の桟敷が一杯になっていたこと、そして謡本に目を落とす首本党が3人くらいしか見えなかったのは大したことだ。席を中正面1列目の脇側に座る。

最初に銕仙会の当主、銕之丞の仕舞「三山」。観世流では比較的新しい復曲(レパートリーにしていなかった曲を復活させること)で、どこかに上演の時の台本があるはずだが、探すのが面倒なので省く。謡曲大観ではカケリからキリにかけての部分らしい。もともと押し出しの強い体型の現当主。こういう曲はどんなものだろうと思っていたのだけど、例えば1歩目を踏み出す前の一瞬の間、型を見せた後の間が自然と余韻になっていたのが大したものと思う。扇は観世水に鉄線の柄、流儀で初演というのなら、色紋付きじゃなくて普通の紋付きにすべきだったと思う。

狂言は「墨塗」。野村萬蔵以下の出演。野村の狂言は江戸前といえばそれまでだけど、大蔵弥左衛門がやったのは辺りを墨だらけにするほどの演出。空涙の時もきちんと水で湿らせていたような。ここを型だけで見せて、後のどたばたもあっさりとしてしまうのはこの曲の本質を誤っていると思う。

さて肝心の「井筒」。地頭が高夫でシテが寛二。ワキは殿田謙吉。このワキはかつてウドの大木みたいな感じでいい印象がなかったのだけど、謡の感じがかつての森茂好に似てきた。このまま育って、出てきただけでもう満足、みたいなワキに育って欲しいと思う。
以下、あれこれ。
・面の選択の問題。
妙になまめかしいというか、鼻の頭つやつやというか、所帯じみた感じの面だった。深井だったのか、小面だったのか。いずれにせよ、襟が白二つの気品には欠けた。
・立ち居の問題
出てきていきなりひと芝居。ここがまあ、1度目の山場とすれば、寛二はすすっとやってしまった感じ。思い入れたっぷりにやることはないが素っ気ない。居グセの間、位取りはどうだったか。再考の要あり。序ノ舞は、笛に振り回された感じがする。この日の笛は京都の杉市和。東京では馴染みが薄く、82年に金剛の緑旺会で聞いた時にはブオブオの、華美ともいえるような笛を吹いていたのに閉口したのだが久々に聞いて、森田流らしい感じの草書の笛に変わっていた。だから間が等間ではない。本三番目物の序ノ舞も、独自のリズムと間で引っ張っている。だから序の部分ではシテがどう合わせていいのか、とまどっている風にさえ見えた。これが笛が日頃慣れている一噌流の系統だったら、特に藤田大五郎みたいにあの年でも楷書の笛を吹く役者なら全然違っただろう。これはシテの芸風と笛の芸風が最初はさぐり合いになってしまったからだろう。それが証拠に初段目、2段目、と進んでいく内に、シテの中で独特のリズムが出てきた。
・地謡の問題
久々に銕仙会風の地謡だった。頭の高夫の力を讃えていい。銕仙会の地謡は、息がそろって無音の状態からいきなりフルスロットルになるような、ダイナミックさにその魅力がある。若いメンバーを従えて、よく統御したと思う。ただ、1列目は元気が足りない。申し訳ないが寛二、高夫や岡田麗史辺りが前に並んでいたころはもっと図々しかった。あんな遠慮がちの声の出し方では宝生になってしまう。合わせられないというのなら、稽古をすればいい。ましてオーソドックスな曲だ。若手はもっと精進すべきだろう。
・後見の問題
山本順之はちょっと目立ち過ぎ。永島忠侈とともに座っていたが、鐘後見じゃあるまいし、もうすこし所作を自然にさりげなくすることを覚えてもいい年だ。自身も後見の名人といわれた田中幾之助の舞台を見ているはず。もう目立ってしまうことが許される年ではない。

あれこれと難点を挙げてきたけど、総じて一曲を通してみると、立派な舞台だったと思う。シテと地頭がしっかり意思を持って曲を演じるということは大切なことだが、ゆるがせになっていることでもなる。

この会も来年から第2期と称するそうな。個人的には早く、寛二には安宅を、高夫には定家を披いて欲しいと思っている。次のステップが見えてくるような気がするからだ。

帰り際、早大観世会の後輩を紹介された。自分が1年で入部した時に寛二が内弟子から独立して師匠になった年。かれこれ26年になる。彼らの人生を遙かに超えていることに後で気が付く。「大変なOBで……」と紹介されたけど、実際そうなのかもしれない。ご一行10人ほどだったか。今も続いているとは慶賀に堪えない。稲門観世会というと、小生の世代よりもう一つ上の世代。彼らを見ていた時の視線と同じだろう。

一つ。研究公演なのだから、20分でもいい。見所の若い観客と話し合いの時間をもってもいいのではないか。たとえばこの日なら、西村高夫がその任を果たしてもいい。面のこと、装束のこと、見れば分かることでも、ひとこと欲しい。個人的には、金剛流の豊嶋訓三先生の自宅での稽古がなつかしい。白金台にあった自宅に稽古に伺うと、その後はかならず決まってカレーライス。弟子一同ともどもさじを運びながら、あれこれと先生に疑問を投げかけた。先生はそれに答えて「この演出ならこうするけど、この時はこうだったから」という具合に教えてくれた。こんな経験がどれほど貴重だったか。能楽界の自民党の観世流は弟子をもっと大事にすべきである。

帰り際、小生の病気のことを知っている師匠が舞台を終えたばかりながら出てきて、玄関先で「稽古に来いよ」といってくれた。稽古するものは既に決まっていて、三読物(安宅の勧進帳、木曽の願書、正尊の起請文)を上げること。師匠も舞台が終わったから少し時間ができるかな。そういえば、井筒で「物着」の小書がつかないのは久々に見たかもしれない。手控えでは82年12月の銕仙会(喜多)で暁夫がやっているけど、この時は物着だったような。80年9月の金剛会(喜多)でも訓三がやっているけど、これも物着だったような気がする。その話をした覚えがあるから。
きちんと中入りするのも悪くはない。

再追)
ちなみにシテのサイトでは、面の種類は増。近江井関家の2代目次郎左衛門作と関ケ原の合戦より古いものだそうだが、増というともっと神懸かった泣増のイメージが強いのか、印象が違った。
もう一つ、居グセの間の違和感はシテが中腰だったからというのが分かった。唐織をきっちり着付けていたので腰を下ろしても、尻が踵につかなかったらしい。どうも中途半端な高さになっていたのがその印象の原因だった。


posted by 曲月斎 at 02:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 三間四方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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