2011年03月02日

「幻視の座−能楽師・宝生閑聞き書き」

幻視の座―能楽師・宝生閑聞き書き [単行本] / 土屋 恵一郎 (著); 岩波書店 (刊)
申し訳ないのだが、主人公の宝生閑の話は実に面白い。

能でワキってのは大体の曲に於いては、最初に出てきて、脇座と呼ばれる舞台右端手前に端座。最後まで動かず、最後に主人公が舞台を去った後、退場していく。ごく存在としては本当にワキ役である。

でも、当代の名人、宝生閑はその面白さ、曲の中での重要性を語っている。
かれこれ能を見るようになって、ずいぶん経つが、そういう視点が必要であったか、という思いもある。

ただ、そこで問題なのは聞き手の技量だ。
よくも悪くも、日本の戦後の能界は観世寿夫という天才の存在が大きな影響を与えてきた。
宝生閑もその影響を色濃く受けた一人だ。
見所の観客のひとりでしかないこの筆者にいたってはましておや。

いつまでも寿夫の幻を追い掛けたいのも分かるものの、それでいいのだろうか。
寿夫がこの世を去ったのは1978年。もう30年余の時の流れがある。

それでもなお、寿夫に頼らざるを得ない、というのはあまりに情けない。

それと同時に、後進に対して、宝生閑は「こんなイメージだったよ」ともどいて話しているのに、それを受けるだけの技量や見識が筆者にはない。

「寿夫を見た世代と見られなかった世代の間には断絶がある」といわれても仕方ないではないか。

歌舞伎の世界でかつて「團菊ジジイ」という一群の見物がいたわけだが、能でも寿夫を「万金丹」としてしまうのは実に情けない。

いい本なのに、宝生閑はしっかりと後世に伝えようとしているのに。
返す返すも残念である。


posted by 曲月斎 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 三間四方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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