2007年03月31日

思案投首の買い物・自家用車

自家用車を生まれて初めて買うことになる。

バイクはこれでも3代目。初代がホンダのスカイ(50ccでホントに軽いバイクでした。箱根の山も登り切れた位)。2代目がホンダのCBX400SF。本人が知らない間に中古で高値の車に成っていて、あっという間に盗まれました。で3代目が四国まで連れていったCB400SF。

でも、自動車は縁なき衆生。車は乗るもので運転するものとは思ったこともないままのゴールド免許であります(運転しなけりゃ無事故無違反ですわな)。

でも、仕事で遣うとなって困った。
まず、後輩に聞くと、
1)どんな状況でも走っていけるためには4輪駆動の方がいい。
2)初めての車だから、四角くて視界が高くて広い方がいい。
3)もちろんAT車。
4)お買いもの程度ではなく、仕事道具を放り込んだままにできる位の積載能力

というのが条件なんですな。
で、勧められたのがランドローバーのディスカバリー。

で、こういう時に相談するのが、神戸の先達です。何しろ4輪駆動車の専門家で、ランドローバーの愛好家でもいらっしゃる。

で、「何をアホなこといってるんですか。そんな条件ならスズキのジムニーのシエラが一番。手まめにオイル交換してやればいい車に仕上がります。あとはダイハツのハイジェットデッキバンでしょう」
で、ちなみに、シエラがこんな車。pg.jpg

で、ハイジェットデッキバンはこんな車。dev_img_equ_002.jpg
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で、なじみのバイク屋は車も扱っているので聞いてみたら「そのシエラって聞いたことがない。うちの担当の営業さんに聞いたら、県内でも登録が月に1台か2台という車らしいよ。ジムニーなら軽自動車にするし、1300ccでジムニーというのが不人気の理由だって」との説明。

ともかく途方に暮れるばかり。で、知人の助言は「ともかく、実際にどこかで乗って見て下さいよ。乗ってみて納得するかどうかなんだから」との説明。本当にどこから手を付けていいのか途方に暮れるような買い物ですな。車、っていうのは。

何かご助言があればぜひ、お寄せ頂きたいものです。
posted by 曲月斎 at 04:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 身辺雑事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月30日

鐵馬で駆けた四国八十八カ所#6/バイク用品

バイクならではの用意すべきものもいくつか。
1)電卓
何日か四国を遍路していると、自分の走行できる距離が自然とつかめてくる。自分の場合は150〜240キロの間だったけど、余裕を持って廻るとすれば150キロくらいに抑えたいところ。
宿で役に立つのが電卓だ。前述の宮崎本には徒歩用ではあるけれど、札所や番外からの里程が出ている。自分で、ここに廻って、とか考えながら最終チェックをしていくときに、電卓があると、非常に役に立つ。

2)ラインマーカー
バイクで動いて居る場合、前述の宮崎本は縮尺が大きすぎる上に、東西南北がめちゃくちゃ。歩く人間には常に進行方向に真っ直ぐでいいのかもしれないけど、バイクではそうは行かない。
となるとやはりロードマップに札所や番外を落として行かなければならない。
その時にルートをチェックするのにラインマーカーが必需。特に雨に降られた時など、事前にチェックしてあるかどうかで、全然動き方が変わってくる。(ただし、四国の幹線道路から札所への案内は割合に親切だが、番外とかになると極端に減る。これは入念にチェックしておいた方がいい)

3)雨具
今回の遍路ではゴアテックスのレインウエアを張り込んだ。革ツナギの上に羽織ってしまうのだから、それなりに水が漏れるようなものでは困る。その点でゴールドウィンの製品は本当に優れもの、だった。

ただ、課題は残る訳で、レイン用のグローブとブーツカバーだ。今回はブーツカバーはすっぽりと覆ってしまうタイプの物を選んだ。確かに雨の心配は無用だったが、やはり歩きにくい。グローブもそう。途中でサーフィンの真冬用に使うようなネオプレンゴム製のものに替えたのだけど、どうしてもブレーキを引く時、スロットルを回すときなどに違和感が残った。ともかく、自動車の遍路と違って、バイクで遍路する場合は雨に濡れることを覚悟しなければいけないのだから、雨具だけはまともなものを用意した方がいい。

まして今回は春先。気候が寒い時など、ジャケット代わりにゴアテックスの上着を着たけど、結構寒さは凌げるものである。
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4)コンパス
地図と見比べながらコースを走る以上、コンパスは必要不可欠。前述の通り、宮崎本は「地図は上が北」という大原則を無視して編集されている。コンパスがないと、片手落ちになる。

本当は88番大窪寺から、別格20番の太滝寺に向かっているつもりが、北に走っていたなんて情けないことは小生一人で十分。コンパスをお忘れなく。

5)時計
歩きの遍路でもそうだけど、札所の納経受付時間は午前7時から午後5時までという協定がある。常にのんびり移動していてもいいようなものなのだけど、バイクを操っていて簡単に目に入る位置に時計があると、本当に便利だ。

今回の遍路ではバイク用の液晶時計をタンクバックのマップケースに入れて使っていた。

6)洗濯用ネットと洗剤
今回の遍路ではツナギを意地でも愛用し続けた。でインナーはまだ寒さが残る時期だったのでサーフィンの冬用のインナー(今回はオニールのロングジョン型のものと長袖のタッパー型のものを仕様)を使った。また、どうしても化学繊維系のものを身に付けることが多い。というのは洗濯をしてもその後、乾きが早いからだ。

その点で、遍路宿に洗濯機はあっても、洗濯用のネットはまずない。洗濯に弱い素材が多いから、これは持ち歩いた方が便利だ。数度はご夫人用のストッキングを買ってきて、この中に詰めて洗濯したけど、どうも具合は良くないようだ。あと、液体洗剤だけど、それはそれ。コンビニでも結構売っているので、適当に入手したらいいと思う。

7)ガムテープと針金
バイクで廻ることの最大のネックはメンテナンス面だろう。ワインディングロード続きで、そうスピードが出せるコースはないのだけど、山間の隘路、ブラインドのコーナーから団体の遍路を乗せたワゴンが飛び出してきて、やっとの思いで交わす、なんて事は日常茶飯事。そんな時の応急修理にこの2つは不可欠。もし、心配なら、重ねていうがブレーキレバー、右のバックミラーは予備を持ち歩いた方がいい。ちなみに、山の上にある札所はほとんど、ローかセカンドで引っ張り続けるつもりでいた方がいい。またブレーキは前ブレーキ8分のリアブレーキ2分。遍路の途中で前のブレーキパッドが擦り切れ、愛媛で交換したことを付記しておく。
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posted by 曲月斎 at 04:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月29日

高山本店・神田

神田の高山本店といえば、能関係では随一の古書店。
正直のところ、値段は高めだけれども、値打ちのある本が揃っているのは事実である。

先途は金春流の大正改版の揃い本を衝動買いしてしまったのだけど、この前訪れた時、少し驚くような謡本を買った。

大阪の大槻文蔵のところで、廃曲をいくつか復元、上演する試みが続いているが、その謡本だった。

たまたま残っていたのは「樒天狗・松山天狗」「鵜羽」の2冊。1冊800円とちょっと高い値段だったが、まあいいかと手に取った。

奥付けを見て驚いた。持ち主の名がはっきり端正な文字で書いてあったからだ。「浅井文義」と。銕仙会の浅井師の手元から離れた本なのだろう。不思議な感じがしたものだ。
posted by 曲月斎 at 02:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 三間四方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鐵馬で駆けた四国八十八カ所#5/バイクのこと

今回、出発する前に、行き付けのバイク店で全部、整備をしてもらった。タイヤも履き替えてもらい、準備万端だった。それでもトラブルは相次いだ。
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大きな転倒や衝突は起こさなかったものの、細い山道での転倒は数度を数えた。

たとえば11番藤井寺から12番焼山寺に向かう梨ノ峠(国土地理院発行2万5千分の1地形図・川島)梨ノ峠や、

鶴峠(国土地理院発行2万5千分の1地形図・馬場)から20番鶴林寺に向かう細い山道。鶴峠

道には湿った杉の枯れ葉がいっぱい。ここはワゴンまでしか入れないのだが、道幅はほぼこのワゴン1台でいっぱい、という感じ。右のブラインドのカーブで飛び出してきたワゴンをなんとか交わしたものの、重心を失って右に転倒した。なかば立ちゴケ状態。ブレーキレバーが折れ、右のバックミラーは破損した。

また、この日はバイクの修理のために、到着の遅れを宿に連絡しようと路肩のドライブインに寄せたら、地面が大きくバンクしていて、サイドスタンドが効かずバランスを崩して転倒。レバーはUの字に曲がった。この日はいっぺんに都合2本のレバーを壊したことになるが、情けないことこの上ない。

普通は立ちゴケの時に右にこけるのだが、左にこけたのも1度。番外の65番三角寺奥の院の仙龍寺に詣でた時だ。かなりの急傾斜の路面。それでも軽自動車が上っていったのだから、大丈夫だろうとたかをくくったら、リアの積み荷が大きいのが計算外。前輪がグリップを失って倒さざるをえなかった。左のバックミラーをはめ込んでいる受け側のねじ山がダメになり、スピードメーターのケースが破損した。これだって、上り坂は中腰になって前輪加重、という基本を実行していたら防げた話だ。

あまり再三、こけた話をしていたら、知人に「今度は浄土宗でっか、それともキリシタンでっか」と言われる始末。体が少しずつライディングを思い出すまでは、そんな調子が続いた。もし、四国をバイクで回ろうと思うのなら、事前にカンを取り戻しておくことをお勧めする。というのはバイクで遍路といってもワインディングロードの連続となることを覚悟しておいた方がいいからだ。

ただ、トラブルの時に有効なのが荷造り用の布テープや針金。辺りの小枝を添え木にテープを無理矢理巻き付けてやれば、なんとかしのげる。それでも心配なら右のミラーとブレーキレバーは予備を持ち歩くしかない。

というのは、四国遍路の途次、徳島ならば阿南にあるバイクショップがたぶん最南端。次のショップは高知市内までないと思った方がいい。高知を過ぎると今度は宇和島辺りまで厳しい。都会に住んでいれば、ごく当たり前にあるバイク屋が、今やないのだ。扱っていても125ccまでというところが大半なのだ。

ただ、それでもどんな店でもクラフトマンシップを働かせてくれたのは嬉しかった。大げさに言えば、日本の技術力の底力、とでもいうか。徳島・阿南のバイク店ではブレーキレバーの予備はあったもののバックミラーが在庫なし。事故車から外してきて、取り付けてくれた。実用にはもちろん耐える。左のバックミラーのねじ山をなめさせてしまった件では香川・観音寺の量販店で、別のバイクの部品からネジ受けを探してきてくれ、汎用してその場をしのいでくれた。同じ香川・高瀬のショップでも、飛び込みの客でもいやな顔一つせず、純正ではないもののが、流用できる前輪ブレーキのパッドを見付け出してくれて交換をしてくれた店もあった。

どこでもバイクが好きだから、という空気が伝わってきたのがうれしかった。そして何より、いざという時の知恵を借りるために、馴染みのバイク屋が地元にあったこと。これが一番大きかった。
posted by 曲月斎 at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月28日

「夢を食いつづけた男―おやじ徹誠一代記」

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「夢を食いつづけた男―おやじ徹誠一代記」(1984年)


植木等さんが亡くなった。
享年80歳のよし。何度か相撲場でお目に掛かり、篤実な受け答えには頭が下がる思いだったが、その人柄はそのお父上の生き方を見てきたからだな、と思っていた。

この1冊はその父親の一代記。ご本人の一代記ではない。今は版元品切れになっているようだけど、もし見掛けたら手に取って欲しい1冊である。
posted by 曲月斎 at 13:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鐵馬で駆けた四国八十八カ所#4 遍路用品

遍路用品というのがある。それを着ていればひと目で遍路と分かるマークだから、着ている方が一番いいのかもしれない。白衣に、笠、杖、札挟み、さんや袋、輪袈裟といったものだ。ただし、今回はバイクで駆け回ったので、判衣しか利用しなかった。

もし利用したいのならば、今はインターネットの時代。品質のよさそうなものを事前に探すことができる。今回、僕が利用したのは高野山にある西仏具店のhp。判衣(各札所で朱印をもらうための白衣)用に、高野山奥の院で「南無大師遍照金剛」の文字を事前に書き込んでもらえるサービスをしていたからだ。
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普段、遍路の道中で着る白衣には旦那寺の住職に筆を染めてもらおうと思って無地のものを用意したのだが、荷が届くのと、住職の日程とが合わず、字が書き込んでもらえないままになった。着用するつもりだった白衣は途中で自宅に送り返してしまった。でも昔の写真集を見ると「南無大師遍照金剛 同行二人」の文字を背中に入れているのはほとんど見あたらない。ならば無地のままでもツナギの上に羽織っていた方が良かったのかもしれない。ちなみに、余りの寒さに太龍寺のロープウェー乗り場で売っていた「南無大師遍照金剛」背文字入り白地Tシャツはなかなか便利だった。1枚1000円也。

また、最初は持参しようと思っていた杖も、この仏具店には檜の立派なものが用意されていた。四国で売っている遍路杖は、安易な杉の角材に頭に飾りの袋が着いたり、般若心経が印刷してあったりするものが大半。しかし、山道を上がったり下がったりする時に、丈夫でいい杖ほど頼りになるものはない。去る夏の富士山登山では八角の杖が役に立つのを承知していたので、なんとか持参したかったのだが……。折りたたむか、釣り竿のように継ぐか、何か工夫を付けることを次回には考えたい。

納め札。巡拝すれば本堂と大師堂に納めるのが原則。さらにお接待してもらった時にはお礼に差し出すのが礼儀。既製品は1束100枚で200円くらいのものが売っているけど、自分で事前に入手して名前を書き込んでおいた方が効率的だ。もちろん、自前のものを作ってもいい。ただ、回数によって紙の色が決まっているので、初めての場合は白。ちなみに5〜7回が青、8〜24回が赤、25〜49回が銀、50〜99回が金だそうな。そういえば、以前、3番奥の院の愛染院で「これはお守りになるから」と金の納札をもらったけど、あれは50〜99回のお遍路さん用の由。100回以上遍路をすると錦の納札を遣えるようになるそうで、なにかこれがお守りになるという信仰もあるそうで、札所の納札箱を漁っている姿もたまに見掛けた。また、歩き遍路さんに御接待したら、お礼にこの錦の納札をもらった。ただ、そう区別するのは古くからの習慣とも思えないのだけど。

前記の納め札や線香、蝋燭、賽銭などを納めておくさんや袋(図太袋)も、バイクの場合はタンクバックがある。これを肩から提げてあるけば特に必要という物ではあるまい。蝋燭、線香にライターくらいは収まる。

余談ながら、蝋燭の火を他の点灯中のものから移してはいけないそうだ。業が移るから、というのだが。寺によっては、火の用意をしている所もある。さらにこの遍路でこの蝋燭絡みで一番豪快だったのは番外の鯖大師。夕暮れ時の納札だったのだが、灯明台に残った蝋燭をガスバーナーで溶かしていた。この蝋ををまとめて、また活用しているのだろうけど、日暮れ時に寺男がガスバーナーのトーチを振り回している姿は何とも言えないものだった。
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ともあれ、1番の霊山寺に行けば、寺自体が巡礼用品のショッピングセンターになっている。団体さんだと次から次へと授戒をしている。その周囲にも数軒の巡礼用品店がある。でも全体的にキンキラキンの感じで、どうも個人的にはなじめないものが大半だった。白衣も上衣はともあれ、下穿きは歩きの方でもトレーニングパンツだったり、ウインドブレーカーだったり。1番の札所に飛び込んで、舞い上がってあれこれと一気にそろえようとするのはどうもお勧めできない気がする。

もし、順打ちをするのなら、ベストな道具類の準備は、@インターネットなどで品物を探し、品質のいいものを選ぶ。A1番の霊山寺周辺で足りないものは補充する。B数カ所、札所を巡ってみて、必要なものがあれば、10番の切幡寺門前(余談なのだが、ここが何で「スモトリ屋」という屋号なのだろう? 看板には横綱姿で、化粧まわしに「黒雲」という四股名が見える。「お身内にお相撲さんが居たんですか?」と尋ねたら、「うちは相撲取り屋ではなく『スモトリ屋』です」という禅問答のような答えだったが……。もっとも東京大空襲で亡くなった関取2人のうち、確か豊島はこの辺りの在の出身だと聞いた。以上余談)のなどにある途中の用品店で買い足す−−といった手順でも遅くはない。特に順打ちの場合は、切幡寺までは撫養街道沿いの十里十カ所といわれる楽な区間。長い旅に少しずつ調整するくらいの気構えの方がいい。
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あと1番で白衣を買うとど真ん中に1番の判を押されてしまうのだが、どうもあれは違和感がある。輪袈裟も「一番霊山寺」と入っているものが多い。別に1番に何の思い入れもなく、たまたまスタートとされているだけなのだから、どうせ格好よく行きたいなら、センスを大切にしたい感じだ。

白衣で、あと団体の巡礼団がよくやっていたのが、20番鶴林寺と、39番延光寺の朱印だけ頂いて着ているというもの。ちなみにこの両寺は鶴と亀が印面のマーク。鶴亀でおめでたいということなのだろうか。

あと、遍路用品の店で印象的なのが59番国分寺前の五九楽館。こっちはバイクを駈けての遍路だが、門前でバイクを止めて参拝しようとしたら、タオルを御接待された。「一緒に遍路に連れていってやって下さい」と小さな白いハンドタオルを戴く。ここのパイル地の帽子を被っている遍路さんは随分と見掛けたけど、遣い勝手がよさそうだった。

というような話を書いていたら、横浜の松坂屋で遍路用品売り場が出来ていたよしを聞いた。にわかにブームなのかしらん。
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2007年03月27日

鐵馬で駆けた四国八十八カ所#3/準備

数多くの四国遍路に関しての本を読んできた。中で一番、参考になったのは五来重の「四国遍路の寺」上下だった。
「四国遍路の寺 (上)」


五来重といっても、知らない方の方が多いかもしれない。日本の庶民の歴史を解明するために宗教民族学を提唱し、墳墓史や庶民信仰史、修験道史、芸能史など多くの分野で先駆的な事績を残した人物だ。仏教という表層から一歩踏み込んだ四国遍路の起源がこの本では説かれている。いわゆる札所で拝むことがすべてではなく、むしろその信仰の原型は「奥の院」と呼ばれるところに残っている、と五来は説いている。とにかく巡ることが修行なのだ、と。それぞれの札所で行ける限りはその痕跡を尋ねてみた。バイクで遍路をしたにしては余計な時間が掛かった巡礼だったけど、今振り返ってみると、五来のいう通り、奥の院と呼ばれるところにこそ、印象深いものが多かった。ほとんどが巌窟だったり、海辺の岩礁だったりするのだけれども。そこから見晴るかした時の景色は、観光地化した札所にはないものだった。
「四国遍路の寺 (下)」



そして信仰の祖形をイメージとして固める手段として役に立ったのが、岩波写真文庫の「四国遍路」だ。まだ、四国八十八カ所巡りが観光地化されていない時代、1956年の刊行で、その信仰に生きる人々の姿が写っている。時代相もあるのだろうが、戦没した息子の位牌を首から提げて歩く夫婦の姿がある。今回もそんな信仰が残っているのを見たのが高知の札所でのこと。小さな仏壇を胸から下げて巡礼している姿があった。そして無地の白衣を着ている遍路も居るが、その一方で普段着で裾を尻にはしょって、手ぬぐいで頬被り。笠に杖、という姿が目立っている。今、常識のように言われている白衣はそう歴史の古いことではないのかもしれない。
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もう一冊は瀬戸内海放送が編集した「歴史の旅 四国八十八札所」(瀬戸内海放送編、秋田書店刊)。もう絶版になっているのだろうが、ちょうど高度成長が叫ばれていた1970年に1札所5分で紹介をする旅番組があった。宇野重吉の語りで。それを活字にしたのがこの1冊。1972年初版。戦後の遍路ブームの先駆けとなった1冊だと思う。白黒の不鮮明な写真ながら、今では見られない風景がそこにある。

実務的に役に立ったのは、やはり宮崎建樹が刊行を続けている「四国遍路ひとり歩き同行二人(解説編第7版、地図編第8版)」(以下、宮崎本と略す)。この地図編は縮尺が大きすぎて、歩く遍路には適当なのだけど、バイクで走る遍路には遣いにくい。そこでロードマップにポイントを写し、走り廻るのに活用した。バイクでは「ツーリングマップル」という小縮尺のロードマップがあるのだけれど、これに札所は全部出ている。ただ番外や奥の院となるとそうは行かないので、当たりを付けるには欠かせなかった。それと、個人的には計算外だったのが、老眼が進んでいて、詳しくは県別の大型版の地図が必要だったこと。結局、四国4県分をそろえ、前記の本から行ってみたい個所にマーキングをした。
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前記の宮崎本が役に立ったのはそれ以外に札所間の概略の里程が出ていること、そしてその付近の宿泊施設が出ていることだ。数日、走っていると、平均で150キロは走れることが分かってきた。すると大体、どの辺りまで行けるのか、また、寄り道をしてもどうか、などなど目的地の取捨の目処が立てやすくなる。遍路の場合は、宿を先へ先へと取った方が都合がいい。どうしても混雑する土曜や休暇期間を除けば、ほとんど午後4時にきょうどこの辺りに泊まるのかを決めてほぼ狂いはなかった。
posted by 曲月斎 at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月26日

鐵馬で駆けた四国八十八カ所#2/動機

人間を45年以上もやっていると、どこかで本格的なメンテナンスが必要な気がする。もちろんそんな必要もない頑健な方が大半だろうけれども。でもバイクだって2年に1回の車検が必要だし、ブレーキパッドやら、バッテリーやら、古くなれば交換もする。事故で交換した部品も多い。今のバイクはもう12年目。考えてみたら、買った当座から残っている部品といえば、エンジン本体とシートくらいかもしれない。そんなものではないか。人間だって同じじゃないのか。(一番ショックだったのは、ガソリンタンクの中が真っ赤に錆びてしまった時。何しろ全然バイクにまたがって居なかったのだから、自業自得ではあるのだけど)

フェリー乗り場

ここ数年、心療内科に通い、鬱症状と診断されて久しい。主治医には「何も考えない時間を持てないものですか。気分を一新するには、何も考えない時間を持つのが一番なのですけども。南の島にでも行って過ごしてみては……」と何度勧められたことか。でも長年の生活習慣が積もり積もって生活リズムは完全に夜型。寝付けないから、睡眠導入剤にも手が伸びる。たとえ休んだにしても、どうしてもPCを開き、ウェブをチェックするのが当たり前。何かことが起きていないか、関係先との電話連絡は欠かせない。まして商売柄もあって、つい新聞も読みたくなる。

ただ、この春の人事異動で、一筋20数年やってきた本社での仕事から、地方に転じることになった。ものを書くことは一緒だけど、全然分野が違う。心機一転するには好機ではないのか。天の配剤だ、と思った。幸い、今の部署で責任を取らなくてはいけない事案も当面ない。ならば、一挙に休んでしまうのも一手ではないか。

まとめた休みがこのご時世にとれるなど、贅沢な話だろう。でも、振り返ってみれば有給休暇の消化はほとんどなく、公休も年間70日近く余らせてきた日々だ。幸い、勤務先に「公休のまとめどり」奨励が出されていたことも幸いだった。

抑鬱剤、抗不安薬に睡眠導入剤。もちろん、旅の間も服用していた。でもライディングするためには翌日まで残る時間には服用できない。しかし、朝起きて、走り出して、巡拝して、宿を見付けて、食事をして、翌日の目処を立てて寝る。この作業のリズムは決まっている。

初めの数日はPCを開いて、ブログを付けてもいたが、それも途中からは辞めた。というのは文章を書いている時間が惜しくなってきたからだ。それならば、やっておくことが山ほどある。翌日のために寝る時刻はある程度限度がある。だから真っ先に止めた作業がブログだった。

メールだけは仕方ないのでチェックをしていた。というのはスパムメールが山のようにくるのが当たり前のこのごろ。スパムメールの山で肝腎なメールがサーバーから抜け落ちてしまうのが怖かったからだ。事実、3日間開けなかったら、その仕分けだけで、小1時間掛かった。

長い間、かかわって世界で、大成する人間に共通していることがある。それは「気持ちの切り替えの早さ」だ。前のことを引きずらない。「煩悩」で我が身を雁字搦めに固めている凡夫にはこれはなかなか出来ないことだ。切り替えをする装置として「四国」を自分の中で生かせないか、それが今回の巡礼の動機だった。

横浜夜景

東京からフェリーに乗り、住まいの横浜辺りを眺める。光の海の中。
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2007年03月25日

難声4日目

四国から帰ったのが20日朝。そしてその翌朝から声が出なくなったのであります。知人に携帯電話を掛けようとして声が出ないのに気が付くお粗末ぶり。

振り返れば、巡礼の終盤、寒の戻りでちょっと風邪っぽかったのもある。20日に咳き込んでいたのも事実。で、仕方ないので22日に耳鼻咽喉科に行く。

鼻からファイバースコープを突っ込まれて、耳鼻科医の曰く「声帯から血が出ています。そんなに腫れてはいないけど。あと鼻の奥がパンパンに腫れた状態。花粉症ですかねえ。花粉症といっても鼻水がダラダラ出て、アレルギー物質を流してしまおうという反応と、粘膜が腫れ上がってシャットアウトしようとする反応があるんですが。杉の花粉はない? ハウスダストかなあ。ともかくあなたの場合はもともと太っているので扁桃腺も大きいし、鼻の奥も狭い。口で寝ている間に息をする習慣がついているんでしょう。だから肺にもろにゴミが入る。肺は出口がない。だから咳き込む。激しい咳込みだったんでしょう。血管の2本や3本、吹っ飛びますよ」

お説ごもっとも。で、再三の説明の際に「あなたの場合」という枕言葉が付くんですね。医者と1対1で話しているんだから「私の場合」の話に決まっているわけで。そういう説教よりも早く治す手だてを具体的に説明して欲しいわけですな。「ま、あなたの場合はものを食べる時以外はマスクをしていた方がいい。しばらく鼻で息をする習慣を身につけなさい。それと瘦せなさい」。ハイハイ。

という訳で、4日経っても声は戻らず。謡ではこういう声を難声といいますが、難声の名人・野口兼資に比べるべくもないひどい声のまま。

声が商売道具の知人に聞いたら「そういう時は喉を遣わない、つまりしゃべらないのが一番。筆談するくらいのつもりでいなさい」と。でも話さないとこちらも商売に差し支える訳で。

ともかく一日も早く改善するよう、祈るしかないですねえ。
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2007年03月23日

鐵馬で駆けた四国八十八カ所#1

この3月3日から18日までの16日間。四国八十八カ所の霊場巡りをしてきた。400ccのロードバイクで。以下はその経験談とお勧め、である。

今回は、よそ目にもひと目でバイクで巡礼しているのが分かるような黒と黄色のライディングスーツ(しかもブランドはあのクシタニのKラインである)で全身を決め(ちなみに体型は問わないことにする)、気分は70年代から80年代に掛けてのロングツーリングだった。
明王院前
バイクは「鐵馬」とバイクマニアの間では呼ばれている通り、ライディングするものである。歩く(ウォーキング)ことと同様、自分の意思ですべてを動かしていく。路面の状況が次々と変化するワインディングロードが続く四国の辺路を走っている間、少しの間も気の抜けることはなかった。カーブに出会えば右なら「インサイド・アウト」とつぶやき、左なら「アウトサイド・イン」と心の中でつぶやく。その一方で道ばたにある石仏に手を合わせたり、地図を確認したり。札所というチェックポイントを探すことよりも、途中からは何も考えない、考えていられない時間の「虜」になっていた。それが「ing」することの魅力だろう。

もちろん、四国遍路は歩くのが本来の姿だ。札所でお互いに出会ったとしても「歩き←自転車←自家用車←団体バス」みたいな序列がある。バイクは序列とすれば自転車の下、自家用車の上というところか。でも快適な環境で移動できる自家用車と、雨が降れば濡れ鼠になること覚悟のバイクとでは、大きな差がある気がする。四国遍路では礼拝している時間よりも、移動している時間の方がずっと重要で長いからだ。だから国道で歩きの方の横をすり抜ける時は噴かさないようにしたつもりだし、挨拶できるときはした。
太山寺前

四国遍路の開祖といわれる弘法大師空海が修行した、というところは、本当の四国の山野の奥や海辺の彼方、町中でもちょっとした旧道沿いにある。八十八カ所の札所だけではない。そういうところへと移動してみようと思うなら、バイクが実に適切な手段だと思うのだ。鐵馬を駆っての四国廻国、ともかく一度廻ってみよう。そして自分の中で心惹かれる場所が残るはずだ。そこにリピートすればいい。言ってみれば今回のバイクでの初巡礼は「巡検」でもあった。

走破距離は約3000キロになった。白衣に笠、杖が普通の遍路姿なら、我が姿は異形の遍路だったことは否めないけれど。
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2007年03月21日

3月21日/谷行

帰ってから一夜。道中の疲れがどっと出たのでしょうか。今までに経験のないことですが、声が満足に出なくなってしまいました。龍角散もヴィックスドロップもダメ。声がかすれたままで、満足に出ない、というのは困った物です。

ふと思い出したのが「谷行(たにこう)」という能です。

阿闍梨が峰入するため、弟子である松若とその母に暇乞いに来る。風邪気味の母を看病していた松若は、峰入に同行したいと言う。反対する阿闍梨や母に、修行は母の現世を祈るためだと熱心に説いて許しを得る。山伏一行と葛城山に峰入した松若は風邪気味になった事を阿闍梨に言う。阿闍梨は峰入の途中でそのような事は言うものではない、旅の疲れだろうからと休むように言う。しかし、他の山伏たちに悟られてしまい、峰入の途中で病気になったものには昔よりの大法によって、谷行を行わねばならないと阿闍梨を諭す。阿闍梨は松若に大法の事を話し、別れを惜しんで谷行を行う。出発の時になっても悲嘆にくれる阿闍梨は、歎きも病気も同じ事だから自分も谷行にしてくれと頼む。他の山伏たちも同情し、松若を蘇生させようと皆々で祈る。役行者が現れ、松若は親孝行の子供だから命を助けると告げ使者の伎楽鬼神を呼び出して松若を助け出し、生き返らせて阿闍梨に渡し、人の目には見えぬ岩橋を渡って去って行く。(大槻能楽堂HPから)

というあらずじの曲であります。「谷行」というのは谷に突き落として石子詰めにすることですが、四国遍路もそういう大法があった時代があるのでしょうか。ご存じの向きはご教示願いたいものです。
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2007年03月20日

3月20日/帰宅

朝5時、有明のフェリー埠頭に着岸。

前日の午前11時半に乗船して約18時間の船旅である。船中であれこれとPCに文章を打っていたけど、とりあえず、推敲してから徐々にアップします。

そのまま、実家に直行して仏壇に無事に遍路を終えたことを報告。朝5時なんかに起きたもので、そのまま実家の今で居眠りになってしまいました。

午後、ちょうど春の彼岸で、檀那寺から年に1度の棚経に来てくれる日に当たりましたので、そのまま在宅。昨年から檀那寺でも団体参拝のツアー(4回で結願)をやっていたのですが、若住職から「結願おめでとうございます」と言われて改めて実感。

ちょうど干していた判衣や納経帳にも礼拝していただいて、ともかくも巻物9巻になった納経を仏壇脇に納めました。

それから、再三のトラブルに電話でサポートしてくれたMMSにバイクのメンテナンスを依頼。ミラーの交換やスピードメーターのケースの交換などなど。電話での助言がなければ無事に回り切ることはできなかったでしょう。

あれもこれも皆さんのおかげ。明日から仕事に戻ります。
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2007年03月18日

3月18日/結願、そして懺悔

とりあえず、無事に88番まで打ち終わりました。一応、結願ということになります。

朝8:30に高松の宿を出て、そのまま83番一宮寺へ。小さな三角で廻る形になるかと思ったのですが、前日打ち漏らした82番の根香寺に打ち戻るのに手間が掛かってしまいました。84番屋島寺は有料道路で、85番八栗寺はケーブルカーで参拝。86番志度寺、87番長尾寺と打ち進んで、88番大窪寺を打ち終えたのが14:30。この日は日曜日だった所為もあってか、団体のバスとの抜きつ抜かれつ。根香寺、志度寺、大窪寺と、納経所での渋滞が堪えました。あの笈摺の束と納経帳の束と掛け軸の束。担いで歩く姿は敬意を表してやまないものがありますが、これも巡り合わせでしょう。

この後、88番大窪寺の奥の院、胎蔵峰寺に上がりました。明るい樹間の階段を上っていくにつれて、境内の団体の嬌声や雑踏の音が遠くなり、遠く阿波の山並みと讃岐の海が見える辺りまでくると、本当にあのゴタゴタとした雰囲気は何だったのだろうと思いました。

途中、行き会ったのは3人だけ。うち、一人は高松から来たという人で、「八十場うどんが美味いというから来たんだけど、ついでに上って見たんだ。もうすぐだから、上ってごらん」と励まされて足を進めると、ぽっこり岩壁にはめ込まれたように奥の院の建物はありました。戸を開けると内陣に小さな石仏が数体。手前には護摩檀でしょうか。通夜もできるようになっていました。最後のおつとめと思って、ここは簡略版ではなく、きちんと読経して下りてきました。

団体のバスの去った後の納経所は静かでした。奥の院の納経をお願いして、住侶としばし雑談。あの奥の院の奥はやはり修験の修行道が続いていて、大窪寺の本堂の上の岩場まで繋がっているよし。でも今は落石などの事故もあって閉鎖しているといいます。「どうでしたか」と問われて、「ああいう形からお寺が始まったのだな、というのがしみじみと分かりました」と答えました。

まだ15:30。もう一カ寺、別格の20番の大滝寺に廻るか、八十八カ所総奥の院という與田寺に廻るか。住侶に相談すると「どちらも風情のあるいいお寺ですよ。方や修験の山の寺という感じで、神仏習合の色も濃く残っていますし、與田寺も町中のお寺ですけど、由緒のあるいいお寺です。こんな話を本来はしなければいけないのだと思うのですが、実際、さっきの混み方では一人ひとりの方とこんな話もしていられないのが……」。まだ30代くらいだろうか。信仰の寺と、寺への需要と。本来の僧侶としてやらなければ、と思っていることと、現実の間で、苦慮するところがあるように見受けました。

結局、大滝寺に向かったつもりが、どこをどう間違えたのか、北上していました。ならば與田寺です。これもご縁でしょう。16:47に納経だけ先に済ませてもらって、あとは本堂、小高い丘の上の大師堂と拝して西に傾く日を眺めていました。あとは国道318号を一路徳島へ。撫養街道に入って、1番の霊山寺に着いた時にはもうとっぷりと日も暮れていました。でも、お礼参りです。本堂と大師堂を拝して、そのまま徳島に戻りました。

結局、3日にスタートして18日に結願。奥の院とか番外とか、道に迷ったりもして、16日間でひとまず終わりました。

岩波写真文庫「四国巡礼」は「我昔所造諸悪業 皆由無始貪愼癡 従身語意之所生 一切我今皆懺悔」と懺悔文で結んでいます。確かに駆け抜けた16日間、生かし生かされている自分であったことは確かです。

ということで、振り出しの徳島のワシントンホテルに投宿。これから夕飯を食べに、どこか探しに行こうかと思っています。

この道中の詳しいことは追々、帰りのフェリーの中で書くことにします。さすがに休みのまとめ取りとはいえ、高野山のお礼参りはとりあえず仕切り直しで、ということにします。

すでに八十八カ所を何度も回っている叔母から電話が入りました。「今は終わった、という感じだけだろうけど、後でいろいろなことが分かってくるから」と。
posted by 曲月斎 at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3月17日/高松まで

バイクを置いたまま、75番善通寺を打ち、バイクに乗ってからは善通寺市内を南北へ。74番甲山寺は採石場の裏。仙遊が原地蔵堂はこのそばの小祠だが、古い絵馬が残っていたり、趣深かった。76番金倉寺を打って、この後、番外の海岸寺へ。元琴ケ浜と大豪の両力士が仁王代わりに出迎えてくれるのはいいのだが、中はここのご住職の書の展示即売会の体。早々に退出して今度は77番道隆寺へ。さらに宿の女将に勧められた番外神野寺を詣でる、満濃池というのはさすがにひろびろとして感動できるため池だったけど、番外の寺は印象が薄かった。
ここからは急ぎ旅、79番天王寺、80番国分寺を打って16時過ぎ。残す81番白峰寺、82番根香寺は山の上だから、どちらか一つ。白峰寺を打って、下山。
今夜は高松のあずま旅館、というかビジネスホテルあずまに投宿。栗林公園が見つからずに往生する。
かねてなじみの錦寿司に電話をしたら今は土曜、日曜は休んでいるとのこと。残念。風邪気味なのでそのまま床に入る。
あと7カ寺プラスアルファ。最後のひと踏ん張りですな。
posted by 曲月斎 at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月16日

泊まったから見えたもの

Pd.jpgちょうど山本屋で夕食を食べていると、女将があれを見て下さいと食堂の電灯を消した。

窓の向こうにはライトアップされた善通寺の五重塔が浮かび上がっていた。創建1200年記念とかで、夜の善通寺しか見られないものだろう。幻想的な色合いが印象的だった。

商店街は閑散としていたとはいえ、いたく町中に下りてきたものだ、との感がひしひしとわく。日常生活に戻らなければいけない時が迫っている。

posted by 曲月斎 at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3月16日/バイク修理の日

かんぽの宿とかに泊まると、どうも朝がずるずるとしてしまう。この日も結局、出発は10時20分。遍路の極北みたいな時間である。
観音寺の街に下りると、カワサキを扱っているバイク店フルスロットルを見付ける。ホンダを扱っているのは高瀬駅そばのビーグルハウスツツミしかない、という。ちなみにレッドバロンをきくと国道11号沿いにあるという。

まず、レッドバロンで左のミラーの部品の件をきくと、なんと別の代用の部品を見付けて来てくれた。何とか、不格好だけど、左のミラーは確保できた。ついでにすでに走り出して3000キロ超。オイルを交換してもらう。その時に「前輪のブレーキパッドが擦り切れる寸前。交換した方がいいけどウチには1組分しかパッドがないので早めに手当を考えた方がいい」との助言。地図を広げると高瀬の駅は遍路の途次。68番神恵院、69番観音寺(これは1カ所で2つの札所がある)と打ち、ちょっと奈良の古寺のような風情のある70番本山寺を拝して、高瀬のバイク屋へ。待つことしばし、純正品ではないけれど、パーツがあるという。交換してもらい、最後の難所と思っていた71番弥谷寺へ。駐車場から長い階段を覚悟していたら、裏参道ができていて、マイクロバスくらいまでならあがれる、という。上がればとりあえず寺まで108段。死者の霊が集まるといわれたこの寺の磨崖仏は見事だった。で、16時前。風呂に便所の付いた個室なら開いているというので、今夜の宿を善通寺門前の山本屋旅館に決め、72番曼荼羅寺、73番出釈迦寺と打つ。出釈迦寺奥の院に当たる捨身ケ嶽禅定は4駆の車なら上がれるという車道が付いていたが、仙龍寺での経験を生かしてバイクでの登坂はあきらめる。そのまま善通寺の宿へ。街は閑散としているけど、やたらに自衛隊の制服が目に付く。そういえば、ここは陸自の根拠地の一つ、である。
宿は89歳の大女将が給仕をしてくれ、もったいないような、不思議なような。さて、自動車の遍路だと、翌日にはもう88番まで打ち納めてしまうという。さてどうしようか。
posted by 曲月斎 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月15日

立ちコケ4度

15日は、仙龍寺に登る急坂で登坂に失敗。左側に仕方なく倒す。考えてみれば、これだけの急坂。中腰で前輪加重を掛けないと前輪がグリップを失ってしまうのは自明の理であります。
たまたま通り懸かってくれた新宮郵便局の方に助けてもらい、何とか起こして取り回す。サイドスタンドを支点に急坂を切り抜ける荒業に脱帽。

この転倒で、左のバックミラーが破損。メスねじの山をなめてしまったらしい。ナットで締め上げてもきかない。MMSの大将はウエスをかませてねじ込むのが応急修理がいいのではないか、と言われる。ともかく、バイク屋さんが観音寺にあればいいのだけど。
posted by 曲月斎 at 23:54| Comment(3) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

滞っていますが……

今のところ重大な事故には遭遇しておりません。(軽微なものは多々。その度に知恵を借りている横浜のMMSさん、本当にありがとうございます)

ざっとここまでの旅程だけ。
10日 国民宿舎土佐(土佐市宇佐)から出発。36番の青龍寺とその奥の院を参拝。一気に足摺岬東岸を南下。四万十市の37番岩本寺と旧札所の仁井田五社を参拝。さらに80キロ南下して足摺岬先端の38番金剛福寺到着は17時。この日は37番の後がずっと雨、それでも翌日のことを考えて50キロ戻って宿毛の鶴の家旅館に投宿。

11日 39番延光寺から始まって、40番観自在寺(愛媛県南宇和郡旧愛南町)、別格6番龍光院(宇和島)、41番龍光寺、42番仏木寺、43番明石寺(西予市)と打って、翌日に備えて大洲市のときわ旅館に投宿。

12日 別格7番出石寺から別格8番の十夜ケ橋(大洲市内)、肘川沿いの菜の花畑を見物して45番岩屋寺へ。奥の院の穴禅定、鎖禅定をして大汗をかく。ここでタイムアップして、久万高原市のやすらぎの宿でんこに投宿。

13日 44番大宝寺から46番浄瑠璃寺(松山市)へ。境内でお菓子の接待を受ける。47番八坂寺、別格9番徳盛寺、48番西林寺では大阪相撲の年寄押尾川の供養碑を見付ける。49番浄土寺。道後温泉そばの50番石手寺で、庫裏に飛び込んだ鶸を助け出して、居合わせた参拝客から1000円のご報謝を受ける。52番太山寺から一気に53番円明寺を打って松山市内を終え、そのまま34キロとばして今治の54番延命寺へ。さらに市内の55番南光坊、56番泰山寺でタイムアップ。どうしても道後温泉に行きたくて松山に戻る。道々、かつての国鉄の仁方堀江航路の跡、堀江港で夕日を眺める。かんぽの宿道後に投宿。

14日 また今治にもどって57番栄泉寺、59番国分寺。ここで四国遍路が生活という御仁に61〜64番まで打ってから60番に上がった方がいいと助言され、それに従う。60番は西条市の横峰寺。有料の林道を約8キロ。この間、ほとんどバイクはローで引っ張りっぱなし。横峰寺は伊予の関所(阿波が立江寺、土佐が神峯寺、讃岐が雲辺寺)といわれる難所。なるほど難所。宿は足を伸ばして「いざり松」の古跡のある四国中央市土居の松屋旅館に投宿。

15日 65番三角寺ごろまでは何とかもった空模様もその奥の院仙龍寺に向かうころに本降りに。雨の中の走りで、はかが行かない。66番雲辺寺はロープウエーで。山上は一面の雪。このロープウエー乗り場で客引きをしていたかんぽの宿観音寺に宿を決め、67番大興寺で打ち止め。宿に戻ってバイクの手入れ、洗濯に、ひさびさのメールへのアクセス。山のようなメールに閉口する。

さて、明日はどうなるやら。でも回り始めるとパソコンに向かっている時間が惜しくなる。やることがいっぱいあるから。
posted by 曲月斎 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月11日

3月9日/国民宿舎土佐はお勧め

夜が早く、朝が早いのが遍路宿の特色。6時の朝食でもOKというところが多い。何しろ、札所は7時から17時までが納経の時間。これを有効に生かすには早立ちしかない。

でも、生来の夜型人間。特にホテルになんぞ泊まってしまうと、たまの高速LAN回線で、山のように溜まっているメールの始末をしたりして、つい寝付くのが遅くなる。まあ、この夜は翌朝1番の仕事がバイクのパーツ探しだったから、まあまあ。

まずバックミラーを探す。レッドバロンにはあった。交換してもらって、今までのはお守り(予備)に。走っていると、南海部品が目に付いた。フルフェイスのヘルメットのエアインテーク部分が欠落してしまい、寒い思いをしていたので、なんとか部品はないかと尋ねると、これはメーカー修理になってしまうという。寒いよりはと奮発したのだが、これがこの後役に立つとは。

巡礼の初めは今は30番善楽寺の奥の院の扱いになっている安楽寺。ここは神仏分離令のお陰で、旧土佐一ノ宮の土佐神社にあった本尊は安楽寺へ、大師像は国分寺へと生き別れたものの、土佐神社の傍らに善楽寺が復興して30番となった。収まらないのは安楽寺。この騒動は平成の世になるまで続いたのであるけど、土佐札所会とかの申し合わせで、番外になった。納経を頼むと「うちは軸には捺せませんよ」とちょっと怒気の籠もった一言あり。

その後、土佐神社に参拝。こここそ本当の札所であり、その点で神社に転身しても十分にやっていけるだけの社格があったからだろう。神域には三つ柏の紋所燦然と輝き、朱塗りの鼓楼が寂びた風情だった。そして30番善楽寺。こちらでは「安楽寺も行ってきたんですか」「ええ、奥の院と伺ったもので」とちょっと不機嫌そうだった。昭和に入って再興された寺らしく、行ってみれば、浅草寺と浅草神社の立場をひっくり返したような位置関係だった。ところで、札所が2カ所あるからプロットが成立していた井上やすしの「12人の手紙」の中の1章。今は無理になった。

何しろ、きょうは札所巡りより、バイク屋巡りになってしまった前半。31番竹林寺もいい感じの寺だった。いい感じの寺の共通項を考えてみると掃き清められていること。きちんと花(しきびや槇も含む)があがっていること、ではないだろうか。自ずと頭を垂れる雰囲気になるものだ。

海岸線を望む高台にあるのが32番禅師峰寺。ここで、この日の宿はかねて好評を伝え聞いていた国民宿舎土佐にする。昨年の大河ドラマ「功名が辻」で長曽我部の残党を皆殺しにした種間浜を通り抜け、浦戸大橋から33番雪渓寺へ。門前で土佐小夏という品種の蜜柑を売っていたので、それを実家に送り返す荷物の一部に詰めることにして数袋買う。

34番種間寺ではちょうど本堂で婦人講かなにかをやっていた。何か綾小路きみまろ、みたいなしゃべり方をする和尚どので、結構受けていた様子。

さあ、最後の一踏ん張りと35番清滝寺へ。山を登り詰めたところに本堂はあるけどその脇まで道が繋がっている。庫裏で「道路維持管理のためにご喜捨を」の張り紙。喜んで喜捨させていただいたら、ボールペン1本を記念品にくれた。これが以外に便利。あれこれとメモをするのに役立っているのである。ここでタイムアップ。この寺には高丘親王の逆修陵がある。垣が巡らしてあるので、よく中は見えなかったが円墳のようでもあり、ただの薮のようでもあり。

で、ここからがまた苦難の連続。地名が市町村合併で訳分からん。土佐市というのはどうも昔の高岡のことらしい。その辺りをぐるぐる走り回った末に、宇佐大橋への道を見付けて国民宿舎に滑り込む。偶然、この宿舎の電話番号を教えた方々はすでにくつろぎの表情であった。

食事は2段のおかずほか。スペシャルとして頼んだのが長太郎貝の刺身。言ってみれば柱の部分は繊維を粗くしたホタテみたいな感じで淡泊、一方、ひもの部分は赤貝よりも濃厚な味わい。確かに美味かった。そして何よりも、スタッフが全員、気を配って仕事をしているのがよく分かる。一流ホテルでもなかなかあそこまで気の利くスタッフをそろえているところはないねえ。

この日はわずかに走行距離73キロ。このツケを翌日、背負い込むことになった。追記
posted by 曲月斎 at 21:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月10日

3月8日/真っ縦から太刀魚の夜に

室戸岬の先、みろく洞と呼ばれる洞穴が、空海が修行したと口述している古跡だ。道内は薄暗く、空海が修行した穴と、それに給仕をした無名の人間の存在があっただろうと思われるのは当然だろう。洞穴の前を走る国道もなく、洞の入り口まで波が洗っていただろう。修行する身も大変だったろうけど、同時にその給仕をした人間の存在も忘れがたい。

24番最御崎寺は駐車場から入ると本堂の裏手からになる。鐘楼の下に、「NHKの行く年来る年」で放映された年次が記念碑に刻んである。大師堂の前には小ぶりだけど、土俵があって、たまには遣っているようす。土佐と津軽、薩摩に加賀、能登は全国の中でも屈指の相撲ところだった。

太田旅館脇の25番津照寺は石段の上に竜宮城のような鐘楼門があり、格子越しに室戸の湊が見える。石段を上がっていくと小さな本堂。景色はいいけど、こじんまりした風情だった。

荷物を旅館で受け取って26番の金剛頂寺へ。小山に頂きにあるこの寺。宿坊も立派なようだ。で、だ。納経所へ行くと、先客はなし。客僧はしばし携帯電話を手放そうとしない。待っていると、ササッと印して、タバコを一服。また携帯電話での会話を始めた。こんな小生など相手にしたくない、という様子。もっとも次の27番神峯寺までは道を間違うはずもない。普通の札所とは違う応対が当たり前なのだろう。五来重の本で、24番〜26番まで繰り返して歩く「行道」があったろうと推察しているが、その行当岬は埋め立てでかつてをしのぶよすがもなかった。

27番神峯寺は土佐の関所といわれる。「まっ立て」と呼ばれる急峻な坂道があるからだ。岩崎弥太郎の母がこの寺に息子の出世を願って日参した、という話を何かで読んだけど、確かにこれは歩きならば難行苦行。でもバイクで上っていくと、駐車場に自然と誘導される。庫裏の下の売店では住侶と遍路宿の女主人が駐車場に掲示する広告の看板について相談中。聞くともなしに聞くと「××で年に3万くらいだから、そんなもんだろう」「それでよろしくお願いします」みたいな会話に聞こえた。しかし、この道、実は一部は神峯神社の参道であり、そこにあった碑には「港を築くに当たって、安全を祈願してこの神社の参道を寄付した」とあった。確かにそれはそうなのだが、現実は神峯神社に詣る人はほとんどいない。通行禁止としている駐車場の上も地元のタクシーはOKのようで、バイクならあそこまで乗り付けても問題はなかったのかもしれない。

また国道55号線に戻って一路高知を目指す。単調な道に眠くなったのに気づき、路肩に止めて缶コーヒーで一服。途中、和田のサーフィンの師匠に紹介してもらった物部川、仁淀川の主、吉田武史君の父君が経営するサーフショップ「コーストライン」に寄る。「急に寒くなって。波はないし。ま、物部の河口でも見に行ってくださいよ」

そんな言葉に送られて28番大日寺を目指す。特に印象なし。29番国分寺。ここは手入れの行き届いた寺だけど、行き着くには結構わかりにくい。ここの住侶が土佐の国司だった紀貫之との別れを惜しんだというが、少なくとも空海が四国を歩き回っていた時代には七重塔も聳える壮麗な寺院だったろう。で、ここの駐車場でまた今度は左へ立ちゴケ。後から来たワゴンが斜め駐車をしてしまい、切り返すに切り返せず、とほほの結果。物損はなかったけど、ガソリンがかぶったエンジンはまた押し掛けで火を入れなければいけない。ただここは平地。汗まみれになってやっと掛ける。30番善楽寺に回れそうな時間帯だったが、17:00のタイムアップ。ま、仕方ないか。

今夜の宿は旅の窓口で見付けたホテル。考えてみると2食抜きで5400円なのだから安くはないのだけど、夜は追手筋の茶漬け屋「よこやま」(872−3387)に出掛ける。ここは高知に来るたびに寄る店。ちょっとした酒の肴や、総菜があって、近所のクラブなどからは出前の注文が来る。そして何よりも嬉しいのはおみやげのおにぎり。1辺3センチほどの小さな三角のおむすびに多彩な具が入っていて食べていくのが実に楽しい。この日も店でうおめし(太刀魚の炊き込みご飯)を食べた後、このおにぎりを手にホテルにもどったのだった。

徳島での経験を生かして、9日の午前中はバイクの予備パーツの確保から始めるつもり。追記
posted by 曲月斎 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 辺地遍路 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする