2006年12月31日

「高野聖 増補」(五来重)

「高野聖 増補」


年の暮れ。何を読んでいるのだろう。

その1冊に選んだのがこれ。宗教は教学や儀義だけではない、ということを教えてくれる本だ。残りの人生、どう生きていくのか。思い悩みながら迎える年末ではある。悩むから人間なのだけど。
追記
posted by 曲月斎 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月29日

横浜案内

 28日、知人とフィンランドから日本語の勉強に来ている女性と3人で、横浜を案内してもらえないだろうか、という話だった。さてフィンランド人の知人というのは思い当たらない。ま、何に興味があるのか、分からないけど、中華街と三渓園を本線に考えた。
 中華街の部分はさておき、三渓園は明治時代に生糸商だった原三渓がその財力で築き上げた日本庭園である。大池の畔から内苑、外苑、シンボルの三重塔と廻って出た。冬枯れのこの時期、閑散としたもので、個人的にはそれは一種の味わい深いものではあったけど。で、問題だ。観光案内はできるけど、どうも不安が残る。
 異国の地で、貴重な一日を過ごすのに当たって、ああきょうは興味深いことが多かったと思ってもらえただろうか、と思う。
 「ホスピタリティ」という言葉は日本語に訳すのが難しい、という話は以前にも書いた気がする。それを実感する出来事であった。
 和田の師匠はその点の名人。適切な距離感でいつも接しているし、国内はもとより、世界からお客さんが来ても、自然体で遇している。あの懐の深さに到達するにはたぶん、まだ修行が足りん、ということになるのだろうか。でも、どこを案内するのがベストだったのだろう。
 赤煉瓦倉庫の前のスケート場、第三管区海上保安本部の桟橋に停泊中の海王丸、大桟橋からの夕景……。横浜って何もないものなあ。

 ところで、「きょうの三渓園」というブログがあるのには驚いた。奇特な方である。
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2006年12月27日

天翔艦隊

昨日の氷川丸の話で画像を引用させてもらった「天翔艦隊」のHPを紹介しておく。

70年代に「がきんちょ」だった世代なら、プラモデルの一つや二つは作ったことのあるはず。中でも、日本の戦艦を中心とした「ウオーターラインシリーズ」は縮尺が700分の1に統一され、静岡のメーカー4社(青島文化教材社、田宮模型、ハセガワ、フジミ模型)の共同企画で、、シリーズも多く、組み立て出すと結構はまってしまう代物だった。ものの資料によれば発足は1971年。今はフジミ模型が組合から離れて、その分を他の3社が分担しているそうな。

そんな時代に育ったのを彷彿させるのがこのhp。
ちなみにこのhpでは1mが1ピクセルの縮尺だそうで、艦艇図と電卓、ペイントソフトを駆使して作り上げているそうな。

タイタニック号は

タイタニック号

で戦艦大和は

戦艦大和

(画像はいずれも同hpから)という具合。

根気のいる作業だと思うし、小生向きではないな、ということは確か。でも眺めて居る分にはプラモデルに熱中したあの時代を思いだす。

追記
posted by 曲月斎 at 01:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 電网恢々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コンタクトレンズが安心して使えるわけ。

大きな発見があった。
「コンタクトレンズは目玉の裏側までは回り込まない」ということだ。

先日、和田浦にいるとき、何度か海に入るので使い捨てのコンタクトレンズを使用した。ふだんは眼鏡なのだが、海水浴をするときは眼鏡をかけたままという訳にもいかず、コンタクトレンズの登場となる。

使い捨てのコンタクトレンズは時にずれてまぶたの裏側に入り込んでしまうことがある。この前も右目のコンタクトが中にずれてしまい、海に入りたさで、まあいいかともう1枚入れて入った。海から揚がって1枚は取り出したのだが、もう一枚が出てこない。

数日経っても目の回りがごろごろした感じが抜けないので、目玉に沿って奥までコンタクトレンズが入り込んじゃったのかな、と思ってかかりつけの眼科に出掛けた。

「まぶたの裏もずっと見ましたけどないようですね。ごろごろするのは結膜炎の所為じゃないですか」と主治医。このお医者殿、はっきりしたものいいをするので好きである。

「ことによってコンタクトレンズが目玉の奥まで回り込んでしまうと思ってませんか? 目というのはまぶたの裏から白目の部分まで『結膜』が繋がっているんで、コンタクトレンズがどこかにいってしまうということはないんですよ」とお医者殿。模式図と撮影したばかりの自分の目玉の写真を見せながらのご説明である。
目玉

「ソフトコンタクトは直径が14ミリ以上ありますから、それこそ蛇腹のように器用に畳んでいる状態なら結膜の隅に入り込むこともあるかもしれませんけど、常識的には考えられませんからねえ」

となると、どこかで自然と外れていたのかもしれない。

しかし、である。目玉はまぶたとは結膜で繋がっているというのは初めて聞いた話だった。確かにこういう構造ならコンタクトレンズを使用しても安心なわけだ。妙なことに感心をした1日だった。
posted by 曲月斎 at 00:46| Comment(1) | TrackBack(0) | 偶然忽然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月26日

ハルシオンを自主回収?

NHKのニュースを見ていて、睡眠導入剤のハルシオンの話が出てきた。
なんでも0.125mgの方(俗にいう包装の色から金ハル)で基準よりも溶け方が遅いそうだ。それよりも驚いたのは、この4月25日以降、およそ3600万錠が出荷されているということ。国内での愛用者は年間17万人に上るそうな。
金ハル

こっちとら、金ハルの2倍量の銀ハル(0.25mg錠)をバリバリと飲んでいるのだから何をか況やでありますが。
銀ハル

それにしても同病相憐れむべき衆生の多さには驚きました。寝酒に頼るよりは遙かに健全だと思っていますけどね。効いて来ないときの焦燥感は確かにひとしおであります。
追記
posted by 曲月斎 at 01:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 身辺雑事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

氷川丸とマリンタワー

昭和40年代に横浜で子供時代を育った人間にとっては、野毛山動物園と並んで、山下公園、氷川丸、マリンタワーは3点セットで、どうもMMの方は馴染みが薄い。
その3点セットのうち、2点のマリンタワーと氷川丸が25日をもって営業を休止した。
氷川丸は戦前の日本の客船(貨客船)唯一の生き残りで、「北米航路の女王」と言われた浅間丸、龍田丸、秩父丸に続く建造の船。
氷川丸1

同型には日枝丸、平安丸がいたが、氷川丸は戦時中に病院船に徴用されたが、のこり2隻は特殊潜水母艦として徴用され、日枝丸は1943年11月米潜の雷撃により、平安丸は44年2月のトラック大空襲で沈没している。病院船とはいえ、機雷の海、誤射の中を生き残った淑女のだから。
氷川丸2

戦後は引き揚げ船になり、シアトル航路に復帰。60年に現役を引退した。
(画像製作:天翔艦隊)

氷川丸の中にはユースホステルがあったり、結婚式場があったり、もちろんビアガーデンがあったり。特にビアガーデンはバイト先の先輩が勤めていた関係で、ビールは闇でフリー、食べ物は食券を2倍に(半券を両方遣う)して待遇してもらったもの。飲み残したビールを腰のペットボトルに入れて持ち帰ったなんてこともあったっけ。
氷川丸


一方、マリンタワーは通天閣にも似た、日本趣味風のお土産店が軒を連ね、その上にはゲームコーナー、鳥を放し飼いにしていたコーナーを作ったり、お化け屋敷をやったりといろいろだった。たしか小学校4年の夏休みの宿題は大判の貼り絵を作ったのだが、赤と白のツートンで塗装していたマリンタワーがその画面にそびえ立っていたのはいうまでもない。が、ある時期、MMのランドマークタワーからマリンタワーを見下ろして、愕然としたのを覚えている。
マリンタワー

ともかくも、横浜の名所が相次いで消えた。今後はどうなるのか、まだ不確定の要素が多そうだが、老残をさらすようなことにはなってほしくない。

そういえば、阿川弘之が日本の辞典には「長門」「陸奥」「大和」「武蔵」「信濃」といった旧日本海軍の艦名が記載されておらず、OED(だったかブリタニカだったか)には出ていたと悲憤慷慨していたが、それはそうであろう。言いがかりとは言い切れない。
posted by 曲月斎 at 01:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 街角辻辻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウルメイワシ

「少しだっけんが、おかずにしなっせえよ」とカネサの若旦那に分けてもらったウルメイワシが届く。クール便で1日。氷漬けになっているので上々の鮮度だ。

さっそく家人に捌いてもらって刺身で食べる。先途、カネサで昼飯をごちそうになったとき、生姜にニンニクを添えていたのを思い出して、ニンニクも少し下ろしてもらって食べた。

ウルメイワシ

「オレは冬の方が好きだから。何しろ魚が美味いっしょ。寒い方が美味いんだから、冬は好きだな」という若旦那。確かに冬の方が美味い魚は多い。

分けてもらった柴の米に、仁我浦に挙がったウルメイワシ。食卓はまだ和田浦の延長線上にあった。
posted by 曲月斎 at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 美食飽食 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月24日

餅は餅屋

23日は、師匠の参加しているOLDBOYS Blues Bandのライブがあった。
板の上に乗るというのは、それなりの覚悟が必要な訳で、覚悟を決めるにはそれなりの稽古が必要。厚顔無恥の小生でも、舞台に上がるとなれば、それなりに稽古はする。
ライブ

さて、6曲、オリジナル曲を披露したこのライヴ。メッセージ性の強い詩は、70年代のフォークを連想させるものだった。もっと言えば、60年代初頭の「歌声喫茶」に近いかもしれない。一度、きちんと、詩を読んでみたい気がした。

かねがね師匠はサーフィン界の「なぎら健壱」だと思ってきたが、その認識を新たにするに足るライヴだった。

さて、このライヴがあった小屋。ライブハウスの看板の上にペンキで塗りつぶしてあったものの「御引菓子調整所」という文字が浮かんで見えた。ライヴの後、慌てて江見の駅に上り電車に乗るために、走りながら、「餅は餅屋」という格言を思い出した。餅屋じゃなきゃ歌えないものがあるのだ、と。
posted by 曲月斎 at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 天象乃音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月23日

12月23日の日の出

日の出
年賀状向きの絵柄ですなあ。仮寓の隣家、奥原兄が電話で知らせてくれました。こんな景色を毎日のように見ながらの生活というのは、なんと人間的なことか。
posted by 曲月斎 at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 波涛千里 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「嫌われ松子の一生」

「嫌われ松子の一生」

映画館ではなくDVDで見たことをまず断っておく。J'sのクラブハウスでのこと。
ただ、この映画はシネスコサイズではなく、所詮はテレビ画面サイズで十分の奥行きしかない駄作だった。

昭和22年。福岡県でひとりの女の子が誕生した。お姫様のような人生を夢見る彼女の名は川尻松子。夢を抱いて就いた教師の職をクビになり、どうみてもダメダメな文学青年にお金を貢ぐ日々。やがてソープ嬢となり、挙げ句の果てにヒモを殺害。刑務所に入ることに。そんな壮絶すぎる女・松子の人生は、不幸なはずなのに、なぜか彼女を応援したくなってくる。男たちに利用され、搾取され、捨てられる。でも彼女は誰を責める訳でもない。53歳、河川敷で死体となって発見された彼女の生涯を探る甥が追跡した叔母人生はどう映ったのだろう。

結論をいうと、今の映画でCGを多用した映画は安っぽくなるという鉄則を見事に証明した1作。困るとミュージカルにしてしまうという古典的手法まで取りれているのだから、タチが悪い。都合が悪くなると花畑が出てきて、役者は歌を歌って踊り出す。思考停止である。

絵柄の見た目は綺麗だけど、ストーリーのカットバックが多く、情けないくらいに不器用な映画であった。

最近、鰻屋に入って、いい店か、悪い店かを見分けるコツを見付けた。山椒の粉が深い緑色なら鰻も美味い。一方、茶褐色した粉を出す店は最悪なことが多い。この作品はCGとミュージカルという安易な手段に頼ったばかりにチープな作品になった。

監督は「3丁目の夕日」が昭和30年代なら、この作品は40年代からの世相の一断面を見せるのを意図しているのだろうけど、その試みは失敗しているとしかいいようがない。
posted by 曲月斎 at 01:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 銀幕緞帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月22日

「時代小説盛衰史」大村益次郎

「時代小説盛衰史」


「大菩薩峠」の中里介山から、「竜馬がゆく」の司馬遼太郎の登場までの作家列伝。ちょうどその時間はほぼ筆者が長年勤務した講談社が出版していた雑誌「講談倶楽部」の時代に重なる。

1911年に野間清治がこの雑誌を創刊する。この誌面を頂点として、数々の雑誌が浮かんでは消え、時代も移ろっていく。正直に言えば、この本の巻末に付いている人名索引は実に結構なものなのだが、その大半の作品を読んだこともないし、作家名すら知らなかった人物も多い。

どこから読んでどこで読み止めてもいい本だけに、読み終わるまでに時間がかかったのだが、作家、編集者、挿絵作家、読者、出版者、新聞社をこれだけつなぎ合わせて、一つの物語に仕立てていく息の長い通史だった。博覧強記というか、人脈をここまで辿る作業を筆者は自身が長年関わってきた「小説現代」のルーツ探し、というが、それだけには収まらない情熱というか、執念のたまものだろう。なお、索引だけでも十分に値打ちのある本だ。

ちなみに講談倶楽部は1962年で廃刊(それまでよく続いていたと思う)。今も人気のある池波正太郎はこの本に登場しているが、まだ藤沢周平は登場してこない。大衆小説という名はもう今や遣われないだろうが、歴史小説は今も新しく登場する作家がその題材と手法として選んでいる。また何十年か後に、この続編を綴るような編集者は登場するのだろうか。そして筆者が長年務め上げた講談社からではなく、筑摩書房からこの本が出版されているというのが象徴的に思える。筑摩書房は講談社のある文京区音羽からは遥かに遠い隅田川沿いの台東区蔵前にある。
posted by 曲月斎 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(3) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

冬至の夜

師匠の犬を借りて仁我浦を歩いていると、柚子の木に小粒の実がたわわに稔っていた。枝元の幹に「ゆずがほしい方おもちください」と短冊が下がっていた。ゴルフボールほどの大きさだったけど、3個もぎってポケットに入れた。こすって鼻に近づけると、柚子の匂いがした。冬至の匂いかもしれない。

じんざの弁当3晩目。時節柄、南瓜が入っていた。小豆を食べる習慣もあると聞いたけど、炊き合わせになっていた。田舎しるこの中に南瓜が入っている感じ。不思議な取り合わせだった。「入らないからこれは別」と渡されたのが茶碗蒸し。プラカップに入っている茶碗蒸しを啜るのも不思議な感じだった。

もう読み始めて半年以上になる「時代小説盛衰記」(大村益次郎)をやっと読了。和田のテトラスクロールで読み継ぎ、コーヒーを3杯飲んでやっと司馬遼太郎の登場を見届け帰宅。夜。和田の海からオリオン座がちょうど挙がってきたところだった。なぜか、オリオン座だけは天空の中ですぐに分かる。「冬の大三角形」なんていう言葉を思い出した。こいぬ座のプロキオン・おおいぬ座のシリウス・オリオン座のベテルギウスの3星から構成される三角形のことで、星が沢山見える和田ならでは景色かもしれない。

読み終わってのことはまた別項で。こういう本を書ける編集者というのはもう不世出かもしれない。
posted by 曲月斎 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 身辺雑事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

有馬記念

愚見を。
有馬記念であります。
やっぱり、ディープインパクトが軸。ドラマチックな馬の時には、やはり武が何とか売り上げ向上を目指すJRAの期待に応えて勝つのではないか、と。
で、無念のリタイアをしたフジキセキを父に持つドリームパスポートが対抗。×は牝馬ながらスイープトウショウ。単勝でアドマイヤフジまで、かなあ。ダイワメジャーは2200以上の勝ち鞍がないので消し、かな。
追記
posted by 曲月斎 at 13:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 偶然忽然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

冬至の朝

冬至の朝。
前日からの約束で、仮寓の隣人が朝の海水浴に誘ってくれる電話をくれたようではあるのだけど、服用している薬の所為もあって、まったく気付かず。効き過ぎるようになってきたのやら。ともかく申し訳ないことをした。
隣人のドアにはクリスマスリース。世間はクリスマスである。

冬至冬中冬初め。南瓜と柚湯くらいしか思いつかなかったけど、あとで柚子くらい買ってこようか。

ゆずといえば、デビューしたのは横浜・伊勢佐木町の横浜松坂屋の前だった。元々は野沢屋という百貨店だったのだが、経営悪化で松坂屋の子会社になった。入山型に九の字のロゴが何とも懐かしい。
y-matsu1_0211.jpg

和田浦の百貨店といえばやはり「とおりさかや」か「岩船」だろう。後で買い物に行かなくては。
posted by 曲月斎 at 13:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 身辺雑事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月21日

砂浜、縮んだのかな?

和田浦.jpg
あれこれと探していると、ありました。
海上保安庁海洋情報部のサイトに、空中写真が。
約10年前の写真ですけど、砂浜がひろいですなあ。
posted by 曲月斎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 波涛千里 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

消えた温泉

和田の花園に温泉がありました。
球形のドーム型の建物で「瑞豊温泉」という名前だったと思います。

ちょうど抱湖園という名所への登り口にありました。建物は変わりなく建っているので、きょう行ってみたら、廃墟になっていました。先代の犬・デュークが生きていたころですから、もう随分経ちます。元々、営業時間が結構短かったような記憶があるのですけど、ガラス戸越しにのぞいたら、温泉の効能書などはそのままになっていたので、まだ湧いてはいるのでしょうが、もう営業はしていないみたいでした。

この陽気だから、温泉があったらうれしいのに……、とちょっとがっかり。
地形図からもいつの間にか、温泉マークが消えていました。
瑞豊温泉.jpg
posted by 曲月斎 at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 波涛千里 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

じんざの弁当

和田浦に居る。

仮寓では、飯は炊ける。でも、毎度毎度、玉子かけご飯にゆかりご飯ということになると、年も年、コレステロールがどうこうということもあるので、そういう訳にもいくまい。

で、一計を案じた。駅前の民宿・じんざに菜の物だけ頼むというのはどうだろう、と。じんざは以前はよくお世話になっていた民宿で、素泊まり3500円。和田浦駅至近の絶好の立地である。本当は宿に併設のぐるっぺのカレーがうまいのだが、今となってはなかなか出逢う機会はない。「いつでも作るわよ」と言われてもなかなか頼むチャンスもないし。この前食べたのは祭りの時だったか。
じんざ


余談はさておき、昼飯に弁当の配達をしているというのを聞いて、ダメもとで問い合わせてみると、やってくれるという。あれこれと買い集めることを考えると、短い期間ならこれも一手かもしれないと、問い合わせてみると、OKとのこと。「昼が600円からで、夜はご相談。いくらでもいいわよ」と言われて、ならば中を取って一応1000円のを頼んだ。午後7時に受け取りにいく約束で2日がたった。

とあれ、芋虫に出逢わず、ブロッコリーが食べられるのは安堵できる話ではある。
posted by 曲月斎 at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 鯨飲馬食 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月20日

「修験の世界―始原の生命宇宙」久保田展弘

「修験の世界―始原の生命宇宙」


吉野、熊野を巡る大峰山や、羽黒山、月山、湯殿山を総称する出羽三山に分け入っていく山伏の修行のルポ。筆者の体験記は確かに興味深いし、日本人の信仰のある根元的な部分を解いてはいる。しかし、五来の本を読む時のような明快さがない。

というのは、ルポなのか、スピリチュアル本なのか、随筆なのか、感想文なのか、性格が入り乱れているからだ。大台ヶ原の一粒の露に宇宙の大きさを感じるのは勝手だが、それを言わずもがなに考えさせるのが本の力だろう。

面白かったけど、もう一つ、物足りなさの残る本だった。
posted by 曲月斎 at 22:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 積本抛讀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

終電車

「次に参ります電車が安房鴨川行きの最終電車となります。お乗り遅れのないようにご注意下さい」

こんなアナウンスが流れたのは午後7時20分過ぎ。内房線木更津駅でのことだ。内房線の終点、安房鴨川まで行く電車はこれが最後。これも首都圏なのである。

君津、青堀、安房湊と過ぎていく内に乗客はどんどん減っていく。館山から先はもう8両編成の列車に何人乗っていたのだろう。

安房鴨川まで行こうと思えば、東京駅を22:15に出るバスがある。これに乗れば、和田まで無理をすればたどり着くこともできなくはない。

和田浦に来るたびに思う。1時間に1本しかない電車だから乗客が減るのか、乗客がいないから本数を減らすのか。例えば富浦から和田までは「南房総市」とやらになった。その都市の機能の最低限の保証をするために、君津から先、安房鴨川まで、JRのダイヤを補うように、レールバスでいいから走らせることはできないのだろうか。もっと言えば、館山〜安房鴨川間だけでもいい。

飲酒運転が当たり前だった土地柄で、最近はそういう話を聞かない。そんな左党のためにも、せめて電車が夜まで走っていることだけでも、何か活気づけるきっかけにならないものだろうか。

この夜、和田浦の駅で降りたのは2人だった。
posted by 曲月斎 at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夜の電話

ときに電話をしたくなるときがあります。
きょうもそうだったのかもしれない。

昔から尊敬し、お世話になっていたプロ野球の名スカウト、Kさんのところに電話をかけました。もう1年ぶりになろうかという無音ぶりであります。
「ちょうど昨日、退院してきたところじゃ」と相変わらず歯切れのいい広島弁であります。「もうあっちもこっちもガタがきとるんよ。去年なんか256日も入院しとってなあ。ところでなんか面白いことはないかい」と続きました。

Kさんと一緒に高知を旅行した時、安芸の阪神キャンプでちょうど、井川が入団2年目のころだったでしょうか。「ワシはこういう投手が好きなんじゃ。ずっと追っ掛けておったんじゃが。まあ、みててみんさい。出てくるから」。Kさんは別にプロ野球の経験がある訳でもなく、野球が好きでこの仕事を始めたという御仁。でもその伯楽ぶりは日本の球界史でも屈指でしょう。「あの井川もヤンキースに行きますねえ」「みんな行っちゃって、日本の野球はどうなるんじゃろ。後が出てくればいいがね。でも松坂にしろ、井川にしろ、7、8勝すれば御の字じゃろ。スナップの効いたいい球を投げよるけどね。ちょうど外人さんには打ち頃じゃろう。よう飛ぶで、きっと」

原爆の後遺症もあって、腎臓に病を抱えておられるのですが、あれはダメ、これもダメの食生活でも「来年は透析のない土、日曜で東京に行こうとおもっとる。意欲はあるんじゃ」とのこと。逆に励まされるような感じでありました。

そしてここ、和田浦を紹介してくれたA君にも電話。考えてみれば、A君が師匠を紹介してくれたから、ここ和田に来るわけで、あれほどよく和田に通ってきていたA君が仕事の都合で今は疎遠になり、逆に自分がここに居るというのは不思議なものです。今はリフォームの仕事をしているそうで、年末は年内に仕上げて欲しいという顧客の前で結構忙しいよし。「また近いうちに飯でも食おうよ。電話くれよな」と言って、会話を終えましたが、実現するのはいつのことやら。
posted by 曲月斎 at 08:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする