2006年03月26日

「国家の品格」 藤原正彦著

「国家の品格」

 藤原正彦。作家新田次郎と藤原ていの次男にして、数学者。現在お茶の水女子大理学部教授。そんなご仁の書いたこの本が結構売れているそうな。
 読んでみると、言うことの一つひとつには無理がないものの、それを連続していったときに、正しい「解」が導き出されるのだろうかと、疑問を抱く。
 昨今の経済事情が砂上の楼閣であるのは言うまでもないこと。曰く市場原理、曰く自己責任などなど。経済施策の数々から、その論理破綻を導き出すことはたやすい。
 だが、である。その次善の策が、日本人ならではの情緒を身につけること、あるいは「文学・芸術」を修めることなどなど、前途に遼遠たる理想が見えるかどうか。筆者の考える以上にその習得が困難であり、また一握りの英才俊英を生み出そうとする教育が果たしていいのかどうか。いずれにせよ、煩悩具足の凡夫には、どうも荷が重い。
posted by 曲月斎 at 11:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月25日

難波・かやくめしの大黒

dab25170.jpg 大阪にいると、昼食で時に「かやく飯」を食べたくなる。出向く先は道頓堀のやや南、御堂筋から路地を西に入った「大黒」だ。
 コシヒカリを利尻昆布の出汁で炊きあげたというかやく飯は、ゴボウやコンニャクなどが細かく刻み込んであって、粉のように揉んである海苔の香りがまたうれしい。
 おかずにはシマアジやブリ、サバなどの焼き魚、カレイなどの煮魚、茄子の丸煮、この時期だと鯛の子の煮物、ワカゴボウの炊き合わせなどなど。定番のおかずの他に、季節の菜があるのがうれしい。汁は赤みそ、白みそ、粕汁から選ぶ形。
 あれもこれもとつい頼んでいると、すぐに数千円になってしまうのが難点といえば難点。それぞれに美味いのは美味いのだが。
 3間間口の小さな構え、中もテーブルが2卓あるだけの小店だが、ここで「かやく飯」を食べるひとときは大阪でも上質の贅沢ではあると思う。
かやくごはん
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コープさん

a354633d.gif 兵庫県内でよく耳にするのが「コープさん」という呼び名だ。正式には「コープこうべ」。以前は「灘神戸生協」という名称だった。
 久し振りにコープに出掛けたのはシャツを買うため。震災にも耐えた建物は以前にも変わらず、生鮮食品の売り場ではこの朝水揚げされたばかりの「生のいかなご」がパックにされて並んでいた。この時期はイカナゴの釘煮を炊くのがこの辺りのならい。各家庭で煮ては、各地の知人に送る人も多いのだろう。釘煮用のパッケージや、ヤマト運輸の段ボール箱まで用意されているのだから、行き届いた話だ。
 何にしても、ここまで行き届いたスーパーが存続、発展しているというのは面白いと思う。聞けばその草創は大正年間の米騒動に端を発し、賀川豊彦がその設立に助言をしたときく。東京ではあまり根付いているとは思えないこの「生活協同組合」というシステムが神戸、芦屋、西宮といった阪神間で発達したというのは興味深い。
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2006年03月23日

止まり木

fc049afb.jpg 行き付けのバーというのはありがたいものだ。久し振りに顔を出しても、マスターはこっちの心根はお見通し、みたいなものらしい。言わず語らず、その場に合った対応をしてくれる。ホテルのバーのように気取る訳でもなく、何とかカクテルコンクール優勝の腕前などをひけらかすわけでもなく。
 大阪に今居て、16年来、年に数度は訪ねている西心斎橋のバー「酒肆上野」でそんな思いを味わっている。
 で、地元・横浜。通い慣れたバー「バール・ラ・ストラーダ」が今月いっぱいで閉店するという。店主の健康状態もあって決断だとと聞いた。如何ともし難いことだ。再起を期して欲しい、と望むばかり。ただ、バーはお客と共に年輪を重ねていくものだ。その空白ができるのが返す返すも惜しい限り。
 バーのカウンターを「止まり木」と呼ぶ。ひととき、羽を休める止まり木があるとないとでは生活が変わるだろうことは確かだ。ハチドリじゃあるまいに、羽ばたき続けるのはしんどすぎるから。
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2006年03月13日

「春栄」 近藤乾之助試演会

 能の現在のレパートリーは流儀によって出入りはあるものの約250曲。能を見るようになってもう4半世紀になろうが、未だに全演目を見た、という訳にはいかない。

 「熊野、松風に米の飯」という諺があるが、何度見ても飽きないといわれる名曲や、羽衣や井筒のように頻繁に上演される人気曲のある一方で、題材的に今の時代にはそぐわないもの、あるいは出演者数が多かったり、装置(作り物という)が大掛かりだったりで上演するのに「手間」がかかるなどの理由で敬遠されたり。上演機会が稀な曲が実は大半だ。
 先途、見る機会を得た「春栄」もそんな一曲。

 東京・水道橋の宝生能楽堂での近藤乾之助試演会。宇治川の合戦の後日譚だが、題材的に人情物である上に、直面(ひためん)物と言って、能でも面を掛けない。シテがどうもやりにくいと漏らしたのを聞いたことがある。まして人気のある曲ではないので、自分が主催する会で敢えて上演してみよう、という試みをするのは、いかにも近藤乾之助らしい、といえばらしい話ではある。

 今の能の世界には、ワキの名手・宝生閑がいる。藝に自信があれば、台詞のやりとりも丁々発止、充実した舞台を演じることができる。案に違わず、この日の舞台は、ワキの淀みなく気迫のあふれる台詞、所作に加えて、シテ近藤乾之助の明晰な声や截然とした所作が響き合って、充実した見応えのある1番になった。

 鉢木や安宅、曽我兄弟ものなど、ワキの上手がいないとできない曲は多い。どうせなら充実した舞台を見せたいと思うのが、舞台人の良心であり希望だと思うが、こういう遠い曲や、大掛かりなワキの出る曲をやっておく、今は絶好のチャンスだろう。
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「超バカの壁」

「超バカの壁」

 養老先生の「壁」シリーズ3冊目。個別のテーマについて1話読み切り。取り上げていくのは若者、自分、テロ、男女、子供、戦争責任、靖国神社、金、心、人間関係、システム、本気−−。スイスイと読み進める。書いてあることが、「AはB」という具合に単純化してあるからだ。全部が首肯できる訳ではないけど、フフンと思ったことをいくつか抜き出しておく。

 自分という主題の章で、日本では本来「私イコール"I"」ではなく「私イコール家」なのだと説く。また、「自己」という一語に「プライバシー(私事)」と「インディビジュアル(個人)」という全く別の概念が包含されていると指摘する。確かに「私イコール個人」としても、日本の今の社会はそうは機能していない。明治時代に導入されたこれらの概念は、日本の花鳥風月を指し分けるような微妙な感覚を必要とはしていなかった、としか思えない。だから、一つの言葉に多様な概念が紛れ込んでしまい、意味が不分明になっているという指摘は正鵠を射ているだろう。

 心というテーマの章では、「人間の接触が頻繁になるとイライラが増える。科学的に言えば、お互いに忌避物質を出している可能性がある」という。たとえば、飛行機の片側3人掛けの座席に3席ともびっちりと詰め込まれ、まして真ん中の席だったらそれは苦痛以外の何物でもない。養老は未知の嗅覚器「ヤコブソン器官」が感知しているかもしれないという。この器官は蛇なら二つに割れた舌にあるそうだが、人間は鼻中隔の先端にあるそうだ。ちょっとおもしろい。

 本書を書き上げて、養老は趣味の昆虫採集を指して、「私がいま考えていることは、虫の話を除けば、これでほぼおしまいである。ここまで吐き出せば、残りわずかな人生、あとは虫だけで十分じゃないかと勝手に思っている」と後書きを結んでいるが、早くそうなった方がいいのかもしれない。論理展開に硬直化が見えるからだ。「壁を超えるのはあなた」と帯に大書してあるが、個人的には、壁があるからこそ人間、壁こそ人間の業だと思う。そして人智の及ばぬ世界に言及しながら、それを脳から覗こうとするのは、何か養老自身の業のようにも思える。

 あと、靖国問題については自分の献体者への供養の経験と、国家の行政の長の行為とを相似形に見立てているが、ちょっとこれは無理があると思ったことを付記しておく。
posted by 曲月斎 at 02:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月08日

道なかばに

「中国古典名言事典」

 数日前のことだ。「なんじ道半ばにしてかぎる」っていう故事成句があったと思うんですけど、かぎるってどう書きましたっけ。限ではなかったと思うのですが」と尋ねられた。
 確かに読み覚えたような気のする文句だ。といわれても即座に何が出典なのか、見当が付かない。こういう時は最近、すぐにGoogleやGooで検索してみることが多いのだが、どうも適切そうなものがヒットしない。
 そのまま数日。あ、と思い出して取り出したのが「中国古典名言事典」。講談社学術文庫から出ているもので、諸橋漢和の諸橋轍次博士が著者。漢文では「なんじ」と訓んでも「汝」か「爾」か、「女」だってそう読める。こういうときに五十音順の索引が便利で、どういう文字であれ、一発で検索できる。
 結局出典は「論語」。「女、中道ニシテ画ル」と用例が見つかった。インターネットで事柄を探すのが日常茶飯事になっているとはいえ、活字の便利さを改めて思い知らされる一件だった。
posted by 曲月斎 at 13:55| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月05日

心覚えを兼ねて

posted by 曲月斎 at 03:18| Comment(1) | TrackBack(0) | 積本抛讀 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月04日

「槍持ち佐五平の首」 佐藤雅美著

「槍持ち佐五平の首」

 小説には史実と虚構の距離が必要だ。史実に近過ぎれば、単なる古文書の引き写しであり、翻案に過ぎない。また、虚構に傾き過ぎれば、著述は空虚になる。その塩梅、虚実皮膜の間が「作家」の腕の見せ所だと思う。
 この本の江戸時代を舞台にした小説はいずれもさもありなん、というきっかけから始まる。不行跡な「行かず後家」の仲人口を頼んだことから始まる展開、或いは参勤交代で道中を先触れする役人の行き違いとその供が忘れ物(槍)をしたばかりに起こる悲劇などなど、当時の制度やしきたりをよく咀嚼しているとは思う。表題作のほか、「小南市郎兵衛の不覚、ヨフトホヘル、重怨思の祐定、身からでた錆、見栄は一日恥は百日、色でしくじりゃ井上様よ、何故一言諌メクレザルヤ」といずれも売り言葉通り「破滅者列伝」である。結末の後味がよくない。不祥事の結末はその上席に知れるところとなって処分を受けましたとさ、という感じの結びが続くからだ。一つひとつの登場人物が躍動していない。
 浅田次郎との「壬生義士伝」をテーマとした対談で登場した作家だったので、期待したのだが、距離感を掴み切れていないが故に、面白さに欠けた。すでに「大君の通貨」という本も買ってしまったのだがさて。
posted by 曲月斎 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

武運長久を祈る

9ecc5260.jpg自宅のデスクトップ機のOSはWindows XPのPro。
もう、Windowsも3.1の時代からですから、長くなりました。
それはさておき、どうにも最近、挙動不審なのであります。
まず、OSのアップデートが出来ない。さらにOfficeのアップデートをしようとしたら、「Mac版はサポートしていません」とまで表示される始末。

パソコンの師匠に電話をしたら、「リカバリーしてみて、それでダメなら、1から再インストールですねえ」とのご託宣。
最後に一言。「ご武運を祈ります」
そうなんですよね、これはもう一か八かの世界なんだから、毎度のことながら。

追記)Officeの修復インストールをしようと思ったら、なぜかフルインストールが始まってしまい、Cドライブは満タンに。もうにっちもさっちも動きません。アンインストールしようとしているのですが、それもままならず。さて、どうしますか。
posted by 曲月斎 at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 電网恢々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月03日

この騒動はどうなったのだろう

今を流行の細木数子。「昭和の墓碑銘」の中で1カ所出てくる。
終戦の詔勅を起草したといわれる平岡正篤の項だ。
「生臭い話一つなかったといわれる八十五歳の平岡さんが、今年三月に知り合った細木数子(45)なる女性実業家と結婚(夫人は8年前に病死)したものだから、家族は飛び上がった。安岡さんはどういうわけか、署名・捺印した婚姻届を彼女のもとに残していたのだ。(中略)目下、婚姻無効で争っていますが(後略)」
日外アソシエーツの人物データベースでは確かに、細木数子は1938年生まれとあり、89年12月に病没した平岡正篤の記事の時と、年齢は合う。
この騒動はどうなったのだろう。
posted by 曲月斎 at 03:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月02日

雨の中で

 軸折れをしたペリカン万年筆はすでに伊東屋に修理に出してあるのだが、その保証書を見付け出して届けに行った。モンブランは2年保証だがペリカンは3年保証。辛うじて保証期間内だった。
 9階のギャラリーに上がると木版刷りポチ袋の展示会をやっていた。交換用の千社札の趣味にも似て、小さな空間にどれだけ繊細で趣向のある図柄を刷り込むかがお互いの技巧のポイント。爛熟した江戸趣味というべきか。今も団子坂のいせやなどに行けば買うことはできるし、即売もしていたが、ポチ袋を遣うこともあるまいと眺めるだけ。
 同じ階の喫茶コーナーに立ち寄るとちょうど「銀座百点」の3月号が置いてあった。パラパラとめくると、目に付いたのは太田和彦の「銀座の酒場を歩く」というバーの記事。銀座サンボアでハイボールを飲む話が出てくる。「あっという間にでき上がり。注文から十秒でシュワーッと気泡の上がるのを飲んでいる。そのうまさ!」とあり、然り然りと頷く。やはりいいバーはなかなか巡り逢いがたいものだ。「カクテルの大会で賞をとったりすることには、まったく興味がないというのも街場のバーの強烈なプロ意識に思える。その現れがこのハイボールかもしれない」。と文章は続いた。
posted by 曲月斎 at 01:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「あの頃こんな球場があった―昭和プロ野球秘史」 佐野正幸著

「あの頃こんな球場があった―昭和プロ野球秘史」

 東京スタジアム、後楽園球場、川崎球場、横浜平和球場(ゲーリック球場)、早大安部球場、大阪球場、西宮球場、日生球場、藤井寺球場、平和台球場、県営宮城球場、札幌市営中島球場、上井草球場、武蔵野グリーンパーク(東京スタディアム)、駒澤球場、洲崎球場。いずれももう今はなき野球場だ。その思い出や来歴を綴ったのがこの1冊。単に記録的な側面を振り返り、そのサイズを振り返るなら「野球場大事典」の方がいい。元近鉄、阪急の応援団長を務めていた筆者ならではの思い出話が混じるところがこの本の妙味。自分でも足を運んでいた球場もいくつかある。補完するつもりでいくつか思い出話を記せば――。
 1)後楽園球場 記者席には1番から番号が振ってあって、球場外から出前を取る時には「×番に持って来て」と頼んでいた。新三陽という壱岐坂下に近い中華料理屋がメインで、名物は「貝そば」「アワビそば」。また、新東宝の映画「人生選手」では球場が映るシーンがいくつかあるが、外野スタンド左翼席の向こうには神田川を挟んでお茶の水の緑の丘が見えた。
 2)横浜平和球場 スコアボードは球場が解体された後、藤沢八部球場に移設されていたはず。ただ、すでに八部球場も改修され、今は残っていない。記者席は葦簀張りで、雨が降ると傘をささなければいけなかった。それとここでの初ナイターの話。出場していた近藤貞雄投手によると「照明といっても裸電球がいくつかついている程度だった。フライが上がると見えなくなってしまって、ベンチの天井の高さくらいになると、フッと見えるようになったものだ」。
 3)川崎球場 小津安二郎の最後の作品「秋刀魚の味」に一瞬映る。この球場の右翼席は敷地の関係で左翼より低く、風が抜ける道になっていた。この方向に風が吹くときは雨になると言われているが、1960年に大洋が優勝した年だけは雨が降らなかったという。これも「三原マジック」との伝説あり。
 4)大阪球場 すでに閉鎖された後、南海のエースだった杉浦忠が1995年に野球殿堂入りした時のこと。球場向かいのホテル南海で記者会見があった。会見の後、杉浦はすでにフィールドが住宅展示場になっていたこの地に立って、「この辺りが一塁で、あの辺がマウンドか。こんな姿になっているならもう残っていない方がいいのに……」とつぶやいた。
 5)西宮球場 ここの食堂の名物は「ビーフカツ」だった。本当に美味かった。それと貴賓席には日本のプロ野球の本当の草分けといわれる「宝塚野球協会」のメンバーの記念写真が飾ってあったと元オリックス球団代表の井箟重慶氏から聞いた。「えらい球団を買収したものだ」と思ったという。
 6)藤井寺球場 本当にここのエレベーターは遅かった。スタンドを駆け下り、駆け上がる方がよほど速かった。それとここは一番上に上がると見晴らしが素敵で、遠く羽曳野のPL教団の塔がよく見えた。
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2006年03月01日

読み飛ばした本だけど

今を流行の細木数子。「昭和の墓碑銘」の中で1カ所出てくる。
終戦の詔勅を起草したといわれる平岡正篤の項だ。
「生臭い話一つなかったといわれる八十五歳の平岡さんが、今年三月に知り合った細木数子(45)なる女性実業家と結婚(夫人は8年前に病死)したものだから、家族は飛び上がった。安岡さんはどういうわけか、署名・捺印した婚姻届を彼女のもとに残していたのだ。(中略)目下、婚姻無効で争っていますが(後略)」
日外アソシエーツの人物データベースでは確かに、細木数子は1938年生まれとあり、89年12月に病没した平岡正篤の記事の時と、年齢は合う。
この騒動はどうなったのだろう。
posted by 曲月斎 at 02:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする