2005年11月30日

「勇気凛々ルリの色」

「勇気凛凛ルリの色」
週刊現代に1994年9月から1995年9月にかけて連載されたもの。当時はまだ人気作家ではなかった氏のエッセーを掲載した編集者の慧眼にまず敬意。
作家志望の青年が三島由紀夫に出逢った話、山口瞳に名乗りを挙げきれなかった話、はた、自衛隊の緊急出動と阪神大震災当時の比較の話、カンボジア、ルワンダなどでのPKO活動での携行する火器についての感慨などなど、今の筆者のエッセーよりも鮮やかに綴っているのが魅力。
週刊誌に掲載されたものの常として、新鮮さが落ちるのはやむを得ない。それを補って尚、なにがしかの説得力があるのが魅力だ。
読み終わった後、何か得をした気分になる。そして何より、読み飛ばすことの出来る快感はこの人のエッセーの魅力である。
posted by 曲月斎 at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「大脱走」

「大脱走」
どうでもいいんですけど、駅前のレコード屋(というかCD屋)の店先で売っていたんですけど、実に価格が999円。下手な単行本を買うより、泰西名画の方が安いというのは何か不思議な感じ。これからササッと早送りで見ますか。
posted by 曲月斎 at 01:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 銀幕緞帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

続「相見えざること参と商のごとし」

あれこれと探していたら、この文句の出典が分かった。どこかで聞いたことあるよな、と思ったら、杜甫の五言古詩だった。

贈衛八処士  衛八処士ニ贈ル

人生不相見  人生、相見ザルコト
動如参與商  動(やや)モスレバ参(しん)ト商ノ如シ
今夕復何夕  今夕(こんせき)、復(また)何ノ夕ゾ
共此燈燭光  此ノ燈燭ノ光ヲ共ニス
少壮能幾時  少壮、能ク幾時ゾ
鬢髪各已蒼  鬢髪(びんばつ)、各(おのおの)、已ニ蒼タリ
訪舊半為鬼  旧ヲ訪(と)ヘバ半バ鬼(き)ト為ル
驚呼熱中腸  驚呼シテ中腸ヲ熱ス
焉知二十載  焉ゾ知ラム二十載
重上君子堂  重ネテ君子ノ堂ニ上ラムトハ
昔別君未婚  別レシ昔、未ダ君ハ婚セザルニ
男女忽成行  男女、忽チ行(こう)ヲ成ス
恰然敬父執  恰然トシテ父ノ執(ともがら)ヲ敬シ
問我来何方  我ニ問フ、何方ヨリ来タレルト
問答未及已  問答、未ダ及已セザルニ
驅児羅酒漿  児ヲ駆リテ酒漿ヲ羅(つら)ヌ
夜雨剪春韮  夜雨春韮ヲ剪リ
新炊間黄粱  新炊ニ黄粱ヲ間ジフ
主稱會面難  主ハ會面ノ難キヲ稱シ
一舉累十觴  一挙ニ十觴ヲ累ヌ
十觴亦不酔  十觴モ亦酔ハズ
感子故意長  子ノ故意ノ長キヲ感ズ
明日隔山岳  明日山岳ヲ隔タバ
世事両茫茫  世事両(とも)ニ茫茫タラム

記憶なんて宛にならないものではあるなあ。
posted by 曲月斎 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月29日

「海楽」

f6aae866.jpgニ出版という版元は不思議なところで、元々、「ニ(えい)」という雑誌は今の「銀花」みたいな民俗学的なグラフ誌だったと記憶している。それが今では、硬派ではライダースクラブから、サーフィン関係でも「NALU」「サーフトリップジャーナル」などなど数誌を出版するに至っている訳で、出版社としては文武百般という感じに見える。
今回、創刊されたのが「海楽(エクスタシー)」という雑誌。サーフィンを根っ子に、海辺の生活を点綴するという趣向。同じ会社から出ている、「湘南生活」だったか、そんな風合いを加味したサーフィン雑誌だ。(ちなみに確か「横浜生活」という雑誌も出していたような記憶がある)
サーフィンというスポーツは長年、若者の特権のようなスポーツだった。それが今では壮年のスポーツになりつつあるそうな。確かに、今年の夏、片瀬の西浜で開催された全日本サーフィン選手権でも、決勝の最終クラスは、かつての花形だった「メン」ではなく、「シニア」だった。つまり30歳前後というカテゴリーだったと記憶する。
確かに、ベテランのサーファーがエレガントに滑っていく姿は見ていて美しい。我が身に引き比べるのは烏滸がましい話だが、あのエレガントさは年輪の賜だと思う。
さて、雑誌。巻頭はジェリー・ロペスのインタビュー記事。独白体に近いものだ。読み応えは、と言われれば、サーフィンジャーナルなどで掲載していたものと比べて、薄味な気がした。海辺でカジュアルなマリンライフ、みたいな雑誌のコンセプトに合わせて構成されているようで、文字面がちょっと上滑りしている感じだった。これは完全に聞き手、書き手のレベルの問題。どんな名鐘でも撞き手が悪ければ、それなりの音しかならないのは致し方ない。
それと何よりも気になったのが誌面の広告の出稿元の構成。記事があってその対向面(向かい側のページ)に広告が入る、という体裁で雑誌は進行しているのですが、そこに掲載されているメーカーがオメガだったり、ハンセンだったり。あくまで狙うところの読者は那辺にあるのか、という衣の下の鎧が透けて見える。一介の海水浴客ながら、海に親しむ、ということは決してそういうものではない、と思うのだが。

ちなみに版元の宣伝文は以下の通り。
「仕事はハードにこなし、遊びもウマイ。そして、何よりも海が好きだ! をキャッチフレーズに、海が大好きな大人に向けたライフ・サポート・マガジン『海楽』が堂々完成いたしました。創刊号のトップを飾るのはサーフィンの神様、ジェリー・ロペスの単独インタビュー! サーファーだけではなく、海に関わるすべての人々、そしてエコロジスト、ヨギーニといったあらゆる分野から尊敬されているジェリー・ロペスが“海と関わることで幸せになる”という快楽主義を本誌だけに語ってくれました。ほか、サーファーが住むビーチハウスや、海楽主義者たちのライフスタイル、海の気分がいっぱいのレストランに、ベスト・バイ・ガイドなど、海楽人の衣食住&遊を提案していきます」
うーん。提案されても、自分の好きな世界とはちょっと違うなあ。ちょっと塩気の強いムロアジの干物でも焼いて、ビール飲んでいる方が性に合っている自覚はあるから。
posted by 曲月斎 at 05:52| Comment(0) | TrackBack(2) | 波涛千里 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月28日

「飲み食いできるCMって……」

「飲み食いできるCMっていいね」と中島みゆきが呟くのが、サッポロビールの「生絞り」のCM
中島みゆきというと、最近は「プロジェクトX」の主題歌のおばさん、という感じだけど、吾が青春時代を振り返れば、ニッポン放送のオールナイトニッポンの月曜のパーソナリティだった。
調べてみると、1979年4月〜1987年3月まで。たしかその前に月曜の午前1時からの番組を引き受けていたのは吉田拓郎だったと思ったが、どうもhpによると違うようだ。
今、改めてCMでの姿を見ると、歳月人を俟たずとばかり、すっかり変わったように見受けたが、あのしゃべり方はかつてのオールナイトニッポンを思い出させる口調だった。

そういえば、中島みゆきの「店の名はライフ」という曲にある喫茶店。北大の学生運動の活動家のたまり場になっていて、中二階に隠し部屋があって、そのドアの外まで藤女子短大の学生だった中島みゆきが来ていた、という自慢話というか、思い出話というか、断定調の口調で話す先輩が居たが、今も元気なのだろうか。

中島みゆきのしゃべり方から、ふとそんな連想になった。
しゃべり方といえば、中島みゆきの後に出演していたパーソナリティの糸居五郎はもっと特徴的だった。80年代になってもなお、進駐軍時代のDJのような口調だった。糸居五郎は戦前は満州中央放送局でアナウンサーを務め、ニッポン放送へと移籍。「音楽はDJがかけるもの」という信念に基づき、リスナー、ディレクターのリクエストに耳を貸さず、「最初で最後の職人DJ」と言われたという。1980年6月に定年退職、 1981年6月に「オールナイトニッポン」を降板。1984年12月、食道がんにより死去。享年63だったという。「太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を」の滑舌のいい台詞は今も耳の奥に残る。

「飲み食いできるCMっていいね」との一言はまた、図らずも忘れがたい台詞ではある。
posted by 曲月斎 at 04:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 偶然忽然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月27日

毎日が縁日?

たまたま、お茶のペットボトルの買い置きがなくなっていたのに気がついて、近所の大廉売ショップのド○キーコ○グに足を伸ばした。
もう夜中の零時を回っていたというのに、店内の賑わいはなみなみではない。週末のまとめ買いなのだろうか。
それより驚いたのは子連れのお客さんの多いこと。買い物カゴにぶら下がり、「これも買ってよ」などじゃれついている姿を見ると、自分の時間の感覚が狂っているのかと思う。レジの外の「太鼓でドン」などのゲーム機に興じている有様は往年の縁日を連想させられる光景だった。
真夜中の町中で皓々とした店内、異次元空間に見えた。
posted by 曲月斎 at 02:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「マムシのanan」

「マムシのanan」
もともとは1999年から2001年にかけて「anan」に巻頭エッセーとして連載されたもの。リリー・フランキー流の女性論、人生論、生活論。
歯切れのいい、そして少し毒気があって直接的な語り口が心地いい。そして、本にして口絵を入れて3ページで1編という文章の長さは適当な緊張感があって楽しい。ここで、気に入った章を紹介すればいいんだろうけど、どこも文のつながりが長くて警句部分を引用しても訳がわかず、やりにくいものが多いので、書店の店頭でパラパラとめくっていただければ、と思う。
この歯切れの良さが、「リリー・フランキーって面白いですよ」と教えてくれた若い友人の助言の理由だろう。

男の視線とオヤジの視点と。微妙なバランスの妙味。もともとは小泉今日子の
「パンダのanan」を意識して書いたというけど、そんなことはどうでも良くなってくる。「パンダのan an」

を意識して書いた本だと聞くが、あの本は確か一時評判になった本ではあったけど、もうどうでもよいことように思える。帯に曰く「私は読みません 小泉今日子」
posted by 曲月斎 at 02:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月26日

「新世界より」

3c0da0ab.jpg「新世界より」
ドヴォルザークの「新世界より」というと、数々の名演はあるだろうが、この1枚と思って選んだのがこれ。1962年のニューヨークフィルとの録音だから、LPのデジタル化ということだろう。
確かに、音はこの時代の録音とは思えないほど美しい。澄んだ音だった。
ただ、個人的には好きな演奏とは思えなかった。
というのは「泥臭く」ないんだな。ソフィスティケートされている感じ、スマートな感じ。こんな印象が由来するところは、第1に異様と思えるほどに、全体にアップテンポなこと。確かに、このくらいのスピードで指揮棒を振っても問題はないし、トスカニーニの名演も速い。でももっとのんびりした方が「新世界」らしい気がする。第2には弦楽の音の厚みが余り感じられないこと。フィルハーモニーなのでありますから、第1、第2バイオリンの音が重厚に響くことは不可欠。金管楽器の華やかさ、伸びやかな音に比べると、余りに貧弱な気がしたのであります。
すでにして「新世界より」はこういう曲だ、というイメージが先行してしまっているのかもしれないですけどね。同じ顔合わせで録音しているモーツァルトの後期交響曲のCDなどに比べると、貧弱な感じは否めないのであります。
同じCDに収められているスラブ舞曲の方がまだ、良かったかな。新世界出身のバーンスタインが見た東欧人、という感じがぬぐいきれないままに、CDを聞き終えたのでありました。
posted by 曲月斎 at 06:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 天象乃音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

銀塩写真の終焉

敬愛する先輩のブログで「銀塩写真の終焉」と題する連載を見掛けた。

銀塩写真、つまりは普通のフィルムのことだ。デジタルカメラ全盛のこの時代に、何をアナログな話、と思うだろうが、先輩に異を唱えて一文を書く気になった。

あえていう。今でも自分でカメラを向ける時、万一にも2度と撮れないと思うときには今でもデジカメは選べない。CanonのF−1であれ、ニコノスであれ。後の処理などを考えたら、デジカメの方が簡単だし、機材も充実しているし、機動性にも勝っているのは承知の上でのこと。でも銀塩写真はフィルムを入れ忘れた、という時以外は、何とかなる、という信頼感があるからだ。

もちろん、職業としてカメラを向けているわけではないから、そういう選択肢になるのかもしれない。でも、何度となく、ファイルが壊れたという理不尽な理由で撮影したはずの画像が消えてしまっているのを経験していると、そうなってしまう。

手元のCanonのF−1はすでに交換用レンズも高嶺の花。気の利いた望遠も広角もちょっと中古でも手の出ない額になっている。コレクターズアイテムになっているのだろう。覗いた時のスクリーンももう高値。方眼のスクリーンなんてほとんど手に入らない。さらには、壊れた時に修理がきくのやら否や。それでも動く限りは遣い続けるだろう。

このカメラは60分の1秒以上のシャッタースピードなら機械式だったと思う。フィルムさえあれば、電池が切れてもシャッターは切れる。それが一番の信頼感、になっている。

こういうことを考えているのはすでにして時代錯誤なのかもしれない。でも。
「レンズは50ミリが1本あればいい。撮れなければ近付けばいい」と教えられたことを今でも思い出す。精神訓のように。そしてカメラは埃を被って本棚の前に並んでいる。「絶対にケースには入れるな。埃は払えばいいけど、カビは取れないから」という教えを守って。
posted by 曲月斎 at 05:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月24日

酉の市異聞

今年も霜月酉の市。横浜・真金町の大鳥金比羅神社は今年も市でにぎわった。
露天の賑わいはいつもの年の通り。人波に押されるままに進み、本殿に初穂を上げて岐路へ。帰路の望みは縁起物の熊手を扱っている一角の店の並ぶ場所。
いくつになっても自分で買う訳ではないけれど、1本ずつ売れていく度に湧き起こる手締めの音は、何とも景気がいい。

で、今年は異変があった。数軒の店は、ギャル御輿を担ぐようなお姉さん達を店先にならべて、嬌声を上げての客引きであった。
売れよう物なら、仕事師らしい、野太い声での発生ならず、「お手を拝借」という掛け声もいささか黄色い。

どちらがうれているのかと何気なくみていると、結構、この「お色気作戦」は成功しているようで、来年以降はそんな店が増えてくるのかも知れない。
でも、啖呵の切れ味のいいお兄さんの景気のいい声が表面だっている方が何か、景気が力強くなるような気がしてしまうのは、ジェンダーの観点から望ましくないんでありましょうな。
あと減ったなあと思ったのは、神棚の神殿屋さん。暦屋さん。肉桂の小枝売りなんて消失してしまったのかな。

とあれ今年は酉年の酉の市。帰りに立ち寄った焼鳥屋で、呷った熱燗がやはり冷えた身には心地よかった。
posted by 曲月斎 at 06:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「高野物狂」偶感

今年も響の会の研究公演に顔を出してきた。午後6時半始曲。サラリーマンには間に合うのはしんどい時間だなあと思う。ちょうど見所に飛び込んだら、葛城の舞囃子のキリのところだった。

中に挟まる狂言の「栗焼」は石田幸雄の独壇場。ここから栗を焼いたり目を切ったりの所作があざとく見えず、栗と楽しむ、客は無関係とまでは言わないが、藝に遊ぶ境地にまであと一歩。以前の「わざとらしさ」は姿を消していたけど、そこまで達すれば本物だろう。

さて肝心の「高野物狂」。まず、一番の能の構成が破格で面白い。前半部分はシテ高師四郎が亡主平松殿の墓参をしていると、そこに狂言方の勤める侍者が飛び込んできて、一子春満が出奔したことを告げる。ここで置き手紙を読んで、幕に引っ込んでしまうところから実は能が始まるようなものだ。ここまでは手紙を読むのが藝であり、その腹の据わり具合を見せるのも勿論力量。この点で清水寛二は上々の位を見せた。本装束の水晶の数珠、こみをとっての所作がキレイで位が取れていた。

後場に変わって、ワキと子方(春満)が高野山の霊地、三鈷の松に出てくると手紙を肩にした男物狂が登場する。これが前シテの高師四郎。歌舞音曲禁止の高野山内で、春満を求める余りの男狂いとなって藝尽くしを見せる。この辺りのクリ、サシ、クセが地謡の聞かせところ。若松健史が地フ人をとったので、統率の穫れた謡ではあったと思う。ただ、遠い曲でったこともあったろうか、前列の若手の元気が今ひとつだった気がする。あの曲の謡としてのおもしろさは「深々たる奥の院」でグッと位を沈めて、ここから一気に遊興の気分に勧めていくところにある。緩急自在なところにある。そのためにはやはり元気よく、だ。
観世は中ノ舞だが、ここで男舞にしてしまった方がいいかもしれない。同じ舞事でも後の颯爽たる空気にあっている気がする。
そして問題の部分。この日のリーフレットの解説にもあったが、観世の現行の謡本では、家を継ぐために山を下りよという高師四郎の薦めにしたがって、春満は下山してしまう。
江戸時代の観世元章の時の改作なのだが、他の流儀の宝生や喜多のように「もとより誠の狂気ならず。主君のためなれば、やがて元結押し切りて、濃き墨染めに身をやつし、主君と同じ捨て人の御供申す志げに主従の道とかや」という詞章だったといわれる。この方が自然だし、そこまで営々と描き上げてきた高野山の霊気にふさわしいと思う。やはり木に竹を接いだような展開になってしまうのは頂けない。
家元の分家の立場にもある観世銕之丞に関わる物がやる公演だ。
こういう理に合わない現行の詞章を元の演出に戻すことは、上演機会の少ない曲だけに、積極的に取り組んでもいいことではないだろうか。

清水師はどう思っていたのかしらないが、小生は青山の稽古場に久しぶりに尋ねた時に「高野物狂のクリ、サシ、クセだけやりたい」と頼んだ因縁の曲。師も歌っていて、思い出すことがあったようで、数ヶ月後、「高野物狂を来年はやるから」とさらり。確かに男の直面もの、やりにくい面も多いだろうが、敢えてやってみる価値はある気がした。
来年の希望番組……。「安宅」でもどうだろう。ワキに宝生欣也が居、銕仙会に若手が多い今の時期。地謡にベテランが頼める時期だ。三役も充実しているのだから。観世の中で「弁慶役者」は先代梅若六郎以来、その名を聞かない。もう披いてもいい時期ではないか。
安宅・延年ノ舞・貝立。
周囲を巻き込むようなアグレッシブさをだしてもいい時期だろう。
posted by 曲月斎 at 04:34| Comment(1) | TrackBack(0) | 三間四方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

通し矢までの第1歩

唐突な話の展開だった。
行き付けのバー・ラストラーダでのこと。友人のI君と落ち合って飲んでいると、バーテンダーのK君が早上がりするという。呼び止めての飲みになった。

K君は高校時代、日置流の弓道にいそしみ、その腕前は九州でも10指に入るほどだったという。そんな話から、唐突にI君が「オレも弓をやってみたい」と言い出した。
確かに、家の近所の公園には弓道場があり、その公園はサクラの名所。「サクラの満開の時に、弓を引いているなんてかっこいいでしょう。あれやってみたかったんだよな」と言い出した。

そうなると、K君。「当分は巻き藁に向かって射る練習ですけど、何とか来年の春には間に合いますよ」との助言。確かに、ゴルフとかに親しむのもいいが、年を重ねての趣味としては弓道なんていうのもいいんじゃない……。「まず、弓と矢と掛けが必要。弓道というのは、単なる武芸というより、美を求めて来た武芸なんですから」という話になる。

そこでこの話が実現に向かうのか、とくと注目したいもんである。

「となると、究極の目標は三十三間堂の通し矢か」と呟くと、「そりゃいいですね」
とK君。ともかく酒席の話としては上々の肴だった。

ところで三十三間堂の通し矢。京都の三十三間堂の端から端までを矢で射通すというもので、始まりは保元元(1156)年。それが堂射として確立されたのが慶長10(1605)年。その後の約450年は武士達が弓矢の修業の腕前を試すものになった。三十三間(約60メートル)の縁・南側の縁で射通していたので「三十三間堂の通し矢」と言われていたが,その後、66間(約120メートル)の西側の縁を試みたらこれも叶い,その後はこの66間をもって通し矢といい、堂上がりを競ったようだ。この縁は幅七尺三寸(約2.2メートル)高さ二間四尺(約五メートル)。そして約120メートルという狭く、低く,長いトンネルを上下左右何物にも触れずに射通すことを通し矢と称した。
種目的に言えば、百射、千射のうち射通した数を数える得点方式と、矢数は決めずに日矢数(10時間)、大矢数(24時間)と言って時間内に射通した矢数を得点とする方式との2つの区分けがあった。で、勿論注目は一番過酷な1昼夜で何本通したかを競う大矢数に集中する。
以下、大数矢に関しての記録を拾い出してみると、

慶長 4年(1599)吉田五左衛門  1000射   ? 中   
寛永 7年(1630)糟谷左近    3568  2054  
寛永11年(1631)高山八右衛門  5320  3151 
寛永13年(1636)杉山三右衛門  7611  5044
寛永16年(1639)長屋六右衛門  9800  5941
寛永16年(1639)高山八右衛門  8804  6154  
寛永17年(1640)長屋六右衛門  9663  6323
承応 2年(1653)吉見喜太郎   3000  1700
           吉見喜太郎   8152  4480
承応 3年(1653)吉見喜太郎   7846  5158
承応 4年(1654)吉見喜太郎   7723  5212
明暦 2年(1656)吉見台右衛門  9769  6343
寛文 2年(1662)星野勘左衛門 10125  6666
寛文 8年(1668)葛西園右衛門  9042  7077
寛文 9年(1669)星野勘左衛門 10242  8000
貞享 3年(1686)和佐大八郎  13053  8133

一昼夜に1万本からの総矢数を射るにはひと呼吸3本、1分間に10本、1時間に600本の割合で射込んでも休む暇もない計算になる。射士はまさに「矢継ぎ早」に射込むだけで、1本の矢が通る頃、次の矢は弦から離れており、3番目の矢は、番えられていたという。

ちなみに江戸にもこの通し矢をするための三十三間堂があったのだが、江戸時代半ばには退転してしまったという。

ここまで書いてきて、成瀬巳喜男監督が「三十三間堂 通し矢物語」という映画を作っていることが分かった。1945年の作品で主演は長谷川一夫、相方は田中絹代。人情劇らしいが、終戦間際にこんな映画をつくっていたのも興味深い話。

そういえば、ゴルゴ13が宇宙空間のスパイ衛星を打ち落とす依頼を受けて、弓道の修行に励む逸話があった記憶がある。確かに確実な無反動の射撃手段ではある。こういうところにまで目をつけるのがさいとうたかおの面白いところではあるのだが。

バーのカウンターでの話だけに広がったままになってしまった。
posted by 曲月斎 at 03:32| Comment(1) | TrackBack(1) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月22日

「海ゆかばのすべて」

「海ゆかばのすべて」
キングレコードの「××のすべて」シリーズは1枚のCDの構成が面白いものが多いので、無条件に買ってみることにしている。で、シリーズ6作目。

戦後60年企画の一環で今夏、発売されたものだろうが、わずか「海ゆかば水漬く屍/山ゆかば草生す屍/大君のへにこそ死なめ/かへりみはせじ」という4句の曲が15年戦争の最中に、生活の隅々まで浸透した曲であったことを思わせる内容だ。
信時潔がこの曲を作ったのが1937年。

25トラックの中で、不覚にも感じ入ってしまったのが、12トラック目。1943年10月21日、明治神宮外苑競技場での実況録音だ。雨の学徒出陣壮行式として記録映画の名作として残るこの光景。その時のJOAKの実況録音が収録されているのだが、地鳴りのように湧き起こる歌声というのは怨念が結露したような、また精神の昂揚の滲んだような、前途への諦観が声となったような。歌った人ひとりひとりはそのライナーノートにその名を記されることはないけれど、この曲がもっとも命を持った瞬間を切り取ったものであると思う。

右とか左とか、関係なしに、これも消し去ることはできない日本の歴史のひとこま。
posted by 曲月斎 at 02:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 天象乃音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月21日

「本日のスープカレー」

「本日のスープカレー」
ジンギスカンと並んで、今年、内地に上陸して評判になっているもの。
正直に言うと、まだ食べたことがない。
水曜どうでしょうの大泉洋が書いた画文集、という感じ。レポートの素材をそのまま本にしたような、ハウトゥ本のような。
この前、しろくまのお兄さんと話していて「ボクはスープカレーってちょっと苦手なんです。普通のカレーはいいんですけど。5倍とか、3倍とか辛いんですよ」と言っていたので、気になっていたのですが。
どうも、この本によると、スリランカ風のカレーをスープカレーということにしているように書いてあるけど、さてさて。

尾籠な話ながら、トイレで本を読むのは子供のころからの習慣。和式便所だった時代からだから話は長い。で、この本を持ち込んだものの、場所がらを弁えて、開くのは止めた。
posted by 曲月斎 at 00:42| Comment(1) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

「富嶽百景」

ae9649c5.jpg「富嶽百景」
これも芸艸堂の出版した1冊。葛飾北斎の「富嶽百景」全3冊を横長の造本にして出版した。
富嶽百景というと、その代表作「富嶽三十六景」が濃厚な味わいなら、うま味を前面に出したような作品群だが、それでもその構図の妙味は抜群といわざるを得ない。天球儀をのせた浅草司天台越しの富士を描いた「鳥越の不二」や、節穴からの倒立画像が障子に結んださまを描いた1枚、蜘蛛の巣越しの富士を見た構図など、爛熟と腐敗の紙一重の差にも似たぎりぎりの技巧を凝らしている。
赤瀬川原平が先日の本で、富嶽三十六景の「神奈川沖波裏」の構図を「2000ミリくらいの超望遠レンズで2000分の1秒くらいの高速シャッターを切ったような絵」と書いているけど、カメラなんてない時代に、そういう構図を思い付く、瞬間を思い付く、次々に発想していった葛飾北斎という人のすごさを改めて思う。
すでに三十六景を書き上げた後の作品群だけに、どこか、富士をネタにデッサンの習作をしているような感じもまたどこか楽しい。
posted by 曲月斎 at 23:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「琳派模様」

「琳派模様―古谷紅麟・神坂雪佳・中村芳中 他」
先途の毎日新聞の書評欄で丸谷才一が紹介していた1冊。つい買ってしまった。
琳派とは江戸時代の尾形光琳を手本とする日本画の一派で、燕子花図屏風や紅白梅図屏風など、美術の教科書には必ずご登場の人物。そこから始まったデッサンやデフォルメの意匠を継承した人びとの作品が収められている。
中で古谷紅麟が描いた「工芸の美」に収められている作品群がすごくいい。茶の湯で遣う研水のデザインで灰色の地に朝顔の花を1輪大きく描いたものなど、すごく新鮮だった。見慣れているけれど、新鮮。狂言で出てくる「肩衣(かたぎぬ)」の意匠にも通じるような大胆さ。そんな琳派の力のほどを覗かせてくれる1冊だった。
版元芸艸堂の心意気に支えられたような本であったような気もする。
posted by 曲月斎 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「真夜中の水戸黄門」

「真夜中の水戸黄門」
しりあがり寿のマンガで、一番わかりやすいのが、「地球防衛一家のひとびと」だとしたら、あとは難解という他はない。
真夜中の弥次さん喜多さんも訳が分からぬままに1冊が終わったが、この本もそう。ご存じ水戸のご老公が、次から次と悪者退治という大量殺戮を繰り返していく。
筆者のメッセージは最後の1章(ネタばれになるから書かないけど)にあるのだろうけど、それだけではない。
しかし、この人は小型核爆弾を使用した後の焦土みたいな光景を描かせると天下一品ということだけは分かった。
こういうマンガを面白い(断片的なギャグは別ですよ)と思って支持する層がいることが不思議で、そういうおもしろさを分からない自分が至らないのか、思い迷うところではある。
posted by 曲月斎 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 汗牛充棟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

分かってもらっているのだろうか。

志ん生の「火焔太鼓」で道具屋の口上に「これなんか珍しいですよ。まず、清盛の溲瓶(しびん)ね。それから岩見重太郎の草鞋。あ、お客さんこれなんかどうです、清水の次郎長が小野小町に出した手紙なんですが……」。これが面白いかどうか、分かるかどうか。

NHKの海老沢前会長が「赤城の山も今宵が限り」と呟いたが、その後に続く「可愛い子分のてめえ達とも別れ別れになる門出だ」という部分に連想が働かないの台詞の意味が分からない。

昔の東京都知事だった東竜太郎が進退を問われて「桃花流水」とだけ答えて「意味不明の発言だ、議場を愚弄している」と紛糾したそうだが、「杳然トシテ去ル」と続く李白の「山中問答」の3句目の引用に過ぎず、「退任する」ということを言外に言っている訳でしょう。

上2例は立川談四楼の「大書評藝」からの引用。下の例は確か丸谷才一の随筆にあった話だったか。

言葉は次々と生まれ変わっていくものだが、理解してもらえるかどうか、どこか20〜30歳代辺りに大きな断層があるような気がする。
posted by 曲月斎 at 16:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月18日

いよいよ辺りに繁し

同い年の友人と最期のお別れをしてきた。
聞けば数年前から体調を崩していたというが、会えばあれこれと話をし、たまに酒を飲む機会があるくらいの仲。そう頻繁に近況報告をしあっていた訳ではないから、突然、という感じがした。
確か前回会ったときは、その小康を得た時だったのか。プロ野球の捕手だったから、堂々たる体躯だった。そんな彼だが、20キロ近く痩せたと聞いた。

年齢を3で割って24時間法で考えると……、という話を誰かの随筆で読んだ記憶がある(原田宗彦だったかな)。つまり生まれた時が夜中の零時。6歳で午前2時、12歳で午前4時、20歳で午前6時半くらい。ちょうどラジオ体操の時刻だ。30歳で10時、ちょっと社会になれてひと息というところ。36歳で正午、45歳で午後3時……。

今の自分の身の始末を考えてみるとき、当たっているような、わかりやすいような気もする。

そう、前述の友人の遺影。マスクつけて球を受けている捕手時代か、コーチ時代の写真だった。確かにあの姿が一番似合っていた。さて我が身は。いっそ紋付き羽織袴姿の写真でも用意しておくか。和服の似合う体型のうちに。
posted by 曲月斎 at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

備忘録

・「三島由紀夫」とはなにものだったのか 橋本治
・テレビの黄金時代 小林信彦
・名画読本日本編 赤瀬川原平
posted by 曲月斎 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑事雑用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする